水底呼声 -suitei kosei-

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  寝たふり  

何かが落ちる音がした.
ウィルが目を上げると,向かいの席では,みゆがテーブルにつっぷしている.
彼女の読んでいた本は,床に落ちていた.
神聖公国の風土について書かれた,いかにも眠くなりそうな本だ.
少年は持っていた本,――子ども向けの冒険活劇,を閉じて,テーブルの上に置いた.
いすから立ち上がる.
二人きりで,黙々と読書をしていた.
隠れ家に閉じこもって.
貧民街ではライクシードが,翔や城の兵士たちを連れて,みゆを探している.
そのために彼女は外出できず,窓のそばに立つことさえできなかった.
なのでみゆは,三日間も日の光を浴びていない.
花がしおれるように,彼女は少しずつ元気がなくなっていった.
ウィルは落ちた本を拾い,テーブルにのせた.
いすから,恋人を抱き上げる.
ぴくりと,彼女の体が動いた.
目が覚めたのだろう.
しかし,眼鏡の奥の瞳は閉じている.
ちょっとの間待ってみたが,そのままで変わらなかった.
少年はみゆを抱いて,階段を上る.
自分の部屋の扉を魔法の力で開けて,中へ入った.
ベッドまで運んで,彼女の体を横たえる.
扉を閉めた後で,さて,どうしようと思った.
彼女の寝顔は安らかで,眺めていると穏やかな気持ちになれる.
と同時に,何を考えているのか,うかがいしれない.
いたずらしたい気にもなるが,そっとしておきたい気にもなる.
少年はベッドに乗りこんで,みゆの顔から眼鏡を外した.
大事なものなので,――これがないと彼女は相当困るらしい,ベッドの脇にていねいに置く.
「ミユちゃん,」
彼女の体に覆いかぶさって,ささやいた.
街の偵察に行ったスミは当分,帰ってこないし.
「今から,君を抱くよ.」
黒の瞳が,大きく開いた.
「えぇ!?」
起き上がろうとして,ウィルの体にぶつかる.
みゆは背中から落ちて,もとの体勢に戻った.
きょろきょろと首を動かして,押し倒されていることに気づくと,ほおを赤く染める.
少年の顔を見上げて,情けなさそうにまゆを下げた.
「気づいていた?」
乱れた黒髪が,色っぽく感じられる.
「うん.」
少年はうなずいた.
抱き上げたときに彼女の意識が戻ったことも,寝たふりをしたことも分かった.
「だまして,ごめんなさい.」
彼女はしゅんとする.
「ウィルがどういう行動をするのか,つい好奇心で.」
みゆが無抵抗ならば,ベッドへ連れていくに決まっているのに.
ウィルは,にっこりとほほ笑んだ.
彼女も,微笑を返す.
了承が得られたと思い,唇を重ねた.
受け入れられて,こたえてもらうと,もっと彼女がほしくなる.
衝動のままに柔らかい体に触れて,服を脱がそうとしたとき,
「待って!」
困惑した声が放たれた.
少年は,手をぴたっと止める.
「その,今日は,……無理で,」
気まずそうに,目をそらす.
ウィルは彼女の上からどいて,さっさとベッドから降りた.
こういうことは,彼女の都合を優先させなければならない.
過去にエーヌに,好きな女性は簡単に抱いてはいけないと教わった.
それが正しい助言であることを,今のウィルは知っている.
その言葉がなければ,みゆに嫌われたのかもしれないし,彼女を抱きつぶしたのかもしれない.
いや,カリヴァニア王国の城から逃げ出すことさえ,できなかっただろう.
ベッドから離れようとすると,後ろからつんと服を引っぱられた.
振り返ると,ベッドの上に座ったみゆが,不安そうな目をしている.
彼女の悲しそうな様子に,ウィルは自分の対応が間違っていたのだと悟った.
けれど,どこが駄目だったのか.
少年は首をかしげる代わりに,とりあえず笑顔を作った.
するとみゆは,ほっとして表情を緩める.
そしてもじもじと,耳まで赤くしてうつむく.
意を決したように,ぱっと顔を上げた.
「今日はごめんなさい.でも次はがんばるから!」
宣言する.
ウィルは,くらっときた.
恋人は照れ笑いをして,軽やかにベッドから降りる.
あ,と声を上げて眼鏡をつかんで,ぱたぱたと部屋から出て行った.
少年は,ばたりとベッドに倒れ伏す.
何をがんばるのか,ちゃんと意味を分かって言ったのか,どれだけ少年をあおれば気が済むのか.
毛布に顔をうずめて,気持ちを落ちつけようと無駄な努力をする.
彼女は最強だ.
常にウィルに勝つ.
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