水底呼声 -suitei kosei-

戻る | 続き | 目次

  王子と黒猫  

その青年を,自分の部屋まで連れてきたのは気まぐれだった.
銀の髪をした若い王子に,興味をそそられた.
双子の姉と息子を失ったときに死んだ心が,ひさしぶりに動いたのだ.
いすに座るように青年に勧めて,ルアンはお茶とお菓子を用意する.
彼はとまどった様子で,テーブルの上に置かれたそれらを見つめた.
毒なんか入っていないよ,と言おうかと考えたが,さきに青年が口を開いた.
「あなたは誰ですか? なぜ俺を部屋に入れたのですか?」
単刀直入にたずねる.
ルアンは,くすりと笑んだ.
「僕は大神殿の黒猫.僕の名前を君が知ることはないと思うよ,バウス殿下.」
名前を指摘されて,彼はぎくりと顔をこわばらせる.
バウスがルアンの顔を知らなくても,ルアンはバウスの顔を知っている.
確か年は,十七か十八だったか.
彼は,世継ぎの王子である.
「神殿嫌いで有名な王子様が,大神殿に何の用かな?」
ルアンは,くすくすと笑った.
バウスは,大神殿に忍びこもうとしていたのだ.
石壁のまわりをうろうろしては,巡回の兵士たちが来るたびに逃げて.
それを何度も繰り返されると,部外者の気配に敏感なルアンは,悟らざるをえない.
近ごろ老いのために,力のおとろえたサイザーやネリーでさえ,そのうち気づくだろう.
だから別の誰かが王子を捕まえる前に,彼の前に姿を現した.
手招きすると,彼は用心よりも好奇心が勝ったのか,従順に部屋までついて来た.
「君の愛するセシリア姫を救いに来た? でもあの子は,ここにはいないよ.」
少女は,大神殿に住むことを断固,拒否した.
幼い少女なりの,――まだ七才だ,抵抗なのかもしれない.
聖女ではないのに,聖女のふりをしなくてはならない少女の.
バウスは,ぶぜんとした.
「今の俺の力では,セシリアは守れません.」
「今の俺の?」
ルアンは,ふっと笑う.
「それは君が国王になったら,神殿に干渉できるということかい?」
国王ごときが,この国でどんな力を持つのだ.
ルアンのあなどりを感じて,王子はまゆを寄せる.
「あなたは何者ですか?」
「秘密だよ.それよりも,君の話を聞かせてくれないか.僕はとても退屈している.」
「退屈ですか?」
意外そうに,青の瞳をぱちぱちさせた.
「だから君を,部屋に招待した.」
ルアンは,お茶を飲むように手振りで示す.
「いただきます.」
彼は気にせずに,カップに口をつけた.
毒殺を恐れないとは,豪胆というよりは鈍感と言うべきだろう.
ちょっとだけ愉快な気分になった.
「そのお茶,」
意味深に,ほほ笑む.
「毒が入っているよ.」
バウスは,ぶっとお茶をふき出した.
予想どおりの反応に,ルアンは笑う.
彼はほおを赤くして,口をぱくぱくさせた後で,
「退屈なのですね?」
ぶすっとした表情に落ちついた.
「うん.」
にっこりと笑んで,彼の言葉が正しいことを認める.
「なぜ大神殿に忍びこもうとしたの?」
答えるべきか否か,青の瞳が悩んだ.
カップを受け皿に戻して,王子は話し出す.
「俺は,知りたいのです.」
「何を?」
まっすぐに,ルアンを見た.
「すべてを.」
気に入った.
ルアンは,ひそやかに笑みを刻む.
王子のまなざしは,大神殿には存在しないものだ.
神に依存し,何ごとにも疑いを抱かない神官や巫女たちは,このような強い目を持たない.
「それで,大神殿に来てみた?」
彼はうなずいた.
「最初は,忍びこむつもりはなかったのです.父に連れて行ってもらいたかったのですが,」
これ以上神殿の機嫌を損ねることはするなと,断られたらしい.
ルアンは声を上げて笑った.
国王は,彼の神殿に敵対するような態度に,ひやひやしているのだろう.
バウスは苦笑する.
「我ながら無謀ですね.あなたが退屈でなければ,俺は警備の兵士たちに捕まったでしょう.」
そして城に帰ったら,父からも母からもしかられます,と言う.
「けれど,俺は思うのです.セシリアは聖女ではない.聖女はラート・サイザーとラート・ネリーのみ.」
瞳の中に,未来が映る.
「彼女たちがいなくなったときに,どうなるのか.どうすればいいのか.」
若さや純粋さを証明する輝きがある.
「セシリアに聖女のふりをさせて,そのことを誰も考えていない.」
バウスのせりふは,他者を非難しているように聞こえるが,そうではない.
「いや,考えないようにしている,聖女のいない国の姿を.」
自分の責務を,――誰もやらないからこそ,自分がすべき仕事を確認しているだけなのだ.
おそらく,無意識のうちに.
「サイザー様とネリー様以外に,聖女がいないわけじゃないよ.」
ルアンは,彼の間違いを訂正した.
「僕ができるだけ長く生きて,君のために結界を維持しよう.」
王子は驚いて,目を大きく開く.
しかしもう,ルアンの正体をたずねなかった.
「僕には大切なものはない.世界を壊してもいいほどに大切な人は,いなくなった.」
リアン,僕の片翼.
彼女のためならば,結界が消えても神の恵みが失われても,構わなかった.
神聖公国が周囲の国々にくいつぶされても,後悔しなかっただろう.
「だから退屈しのぎに,この国を守ろう.セシリアの影となり,聖女の存在を内外に示そう.」
ぬけ殻でしかない残りの人生で,あの哀れな少女を支えるのも悪くない.
「ただし,僕が死んだ後は知らないよ.」
結界がなくなるのか,そのまま残るのか,もしくは徐々に効果が薄れていくのか.
それは,そのときにならないと分からない.
聖女はずっと昔から,神聖公国とともにあったのだから.
「そのときは,俺が.」
バウスの声には張りがあった.
「俺が,結界に代わる国境の守りを作る.砦や,軍隊とか.今から用意すれば,間に合う.」
ちがう,間に合わせないといけないんだ,と決意する.
「がんばってね.」
適当に言うと,「はい!」と希望に満ちた言葉が返ってきた.
が,ルアンにとっては,どうでもいい.
「ねぇ,君にお願いしてもいいかな?」
「何をですか?」
真剣な目の王子に,かねてからの懸案を口に出してみる.
「大神殿の修繕工事を.古い建物であちこちが痛んでいるんだ.」
雨漏りする箇所がいくつかあるのだよと嘆くと,彼は「はぁ.」と間抜けな返事をした.
「父に頼めば,やってくれると思いますが,……今,いきなり話が所帯じみた気がします.」
彼のがっかりした顔に,ルアンはくつくつと笑う.
「助かるよ.大神殿には,大規模な工事をする予算がなくてね.」
威厳と聖性は掃いて捨てるほどにあるが,実際の金は少ない.
ルアンは,いすから立ち上がった.
「さぁ,お別れだ.僕のことは,誰にもしゃべってはいけないよ.」
バウスも席を立つ.
「また,会えますか?」
ルアンは微笑した.
「二度と会うことはない.けれど,君との会話は楽しかったよ.」
そもそも,誰かと顔を合わせること自体ほとんどなかった.
ルアンは大神殿の黒猫,存在しないはずのもの.
王子は,残念そうな笑みを浮かべる.
黒猫は,彼の視界に入るべきではない.
部屋の奥の本棚をずらして,隠し通路へ彼を案内した.
暗い地下を歩くための明かりを手渡すと,バウスはていねいに礼を述べる.
ついで,あなたに会えて光栄でしたと,的外れなことを口にした.
ルアンは苦笑して,彼を送り出す.
そして再び,一人だけの生活に戻る.
この暗くよどんだ世界が壊れる日を待っていた.
戻る | 続き | 目次
Copyright (c) 2010 Mayuri Senyoshi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-