水底呼声 -suitei kosei-

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  住宅購入事情  

話し声で,スミは意識を取り戻した.
とたんに,傷の痛みも戻ってくる.
目に映るのは,見知らぬ部屋の天井.
少年はベッドに横たわっている.
ここは,どこだ.
首を動かして探ると,額の上に置かれていたぬれた布が落ちる.
ウィルの背中と,知らない男の顔が見えた.
「君の弟が,目を覚ましたようだよ.」
中年の男が,にやにや顔で言う.
黒猫がさりげなくベッドと彼の間に入り,スミをかばった.
「金は,あさってまでに用意する.」
「楽しみに待っているよ.」
ウィルの肩をなでて,笑う.
いやらしい笑い方だった.
彼は粘着質な視線をスミにも送ってから,部屋から出て行く.
扉が閉まった後で,スミは声をかけた.
「先輩,ここはどこですか?」
声が,からからに乾いている.
「首都リナーゼの貧民街だよ.」
ウィルはベッドに近づいて,枕もとに落ちた布を取り上げた.
そしてスミの額に,手を当てる.
「街に入れたのですか?」
門が閉ざされて,大勢の兵士たちが守っていたのに.
「門は開いたよ.医者にもらった薬と水を持ってくるから,ちょっと待っていて.」
「医者ですか?」
どのようなツテで,診てもらったのだろう.
「さっきの男が,“善意”で紹介してくれた.」
ウィルは意味深にほほ笑んで,部屋から立ち去った.
残されたスミは,ゆっくりと目を閉じる.
自分は死んだと思っていた.
世界の果ての森で,カイルに腹を刺された.
その後みゆの助けにより,神聖公国へ続く洞くつに入れたらしい.
しかし洞くつの出口は,兵士たちによって封鎖されていた.
ウィルはスミを抱きかかえて,なんとか突破する.
せっぱつまった声で,次から次へと魔法の呪文を唱えた.
なぜ,自分は見捨てられないのか.
もうろうとする意識の中で,スミは思った.
ただの足手まといだ,しかも命が助かる保障はない.
刻一刻と死が近づいているのを,スミは自覚していた.
なのにウィルはスミをおぶって,首都リナーゼまで人目を避けて歩いた.
黒猫は変わったのだ.
みゆに触れて,情のある人間になった.
スミはウィルに,自分をあきらめるように言うべきだった.
けれど,死にたくなかった.
ウィルの背中に,必死にしがみついた.
ここは世界の果ての向こう,神聖公国なのだ.
ここまで来て,どうして死ねようか.
カリヴァニア王国を呪う神に,あと少しで手が届くのかもしれないのに.
ところが,たどりついた街の門は閉ざされていた.
スミたちだけではなく,多くの人々が街に入れずに困っていた.
もう,ここが限界だ.
スミは気力で保っていた意識を手放した.

扉が開いて,黒猫が戻ってきた.
コップや布などを,手に持っている.
「スミ,起き上がって.」
「はい.」
上体を起こすのを,ウィルが片手を添えて助けてくれた.
ずきん,ずきんと腹の傷が痛む.
だが,痛みの深度が浅くなっていた.
医者に治療してもらい,ベッドで休めたからだろう.
しかしこの家は,誰の家なのだ?
「先輩,」
ウィルは有無を言わさずに,スミの口に薬を投げ入れて,水を飲ませる.
そして慎重に,ベッドに寝かせた.
「この家は,誰の家なのですか?」
いったい誰の世話になっているのだ.
「僕の家だよ.」
ウィルは冷たくぬれた布を,スミの額の上に置く.
「先輩の?」
「そう,僕が買った.」
くすりと笑む.
カリヴァニア王国の黒猫は,高給取りだった.
ウィルの部屋の隅には,金貨の入った袋がぞんざいに積まれていたのだが,
「神聖公国は,カリヴァニア王国と同じ貨幣なのですか?」
「ちがうよ.でも受け取ってくれた.」
ウィルは金貨を,表面の図柄をつぶしてから渡した.
が,家の売り主は特に確かめることなく,受け取ったらしい.
「いい加減だねぇ.」
ウィルはにこにこと笑う.
「ありがとうございます,先輩.」
スミは神妙に,礼を述べた.
ウィルが家を買ったのは,スミを休ませる場所を確保するためだ.
「礼を言うのは,まだ早いよ.僕たちは借金の担保になっている.」
「へ? 借金?」
「うん.」
楽しそうにうなずく.
「家の前金は支払えたけれど,残りの金はない.だから金貸しに金を借りたんだ.」
嫌な予感に,スミは背筋がぞぞぞとしてきた.
「前金を支払っても,借金の契約をしなければ,家は売れないと言われてね.」
その場で金貸しを紹介されて,契約を強要されたと言う.
「その金貸しが,さっきまで部屋にいた男ですか?」
気持ちの悪い視線で,自分たちを眺めていた.
「そうだよ.あさってまでに金を支払わなければ,僕たちは男娼になる.」
死んだ方がよかった.
スミは本気で,そう思った.
「神聖公国には,成熟した女性ではなく小さな男の子に欲情する男性が多くいるみたい.」
つまり,先ほどの金貸しのような.
「だからすぐに借金は返せると教えてくれたよ.それから僕は,売れっ子になれるってさ.」
「先輩…….」
家を売った男は,ウィルが金を支払えないことを承知で売ったのだ.
初めから,金貸しと示し合わせていたのだろう.
「ミユさんが泣きますよ.」
俺だって泣きたい.
「大丈夫だよ.あさってまでに金は用意するから.」
「アテがあるのですか?」
黒猫は自信たっぷりな様子でほほ笑んだ.

その日のうちにウィルは,金のアテをつかんで帰ってきた.
それは貧民街のうわさで十分だった.
どこそこの商人は,脱税した金を家にためこんでいる.
どこそこの貴族は,盗品などを扱う闇のオークションを開催している.
どこそこの騎士は,犯罪者から金をもらい,彼らを見逃している.
神のいる国でも人間が存在する以上,後ろ暗い話題には事欠かない.
ウィルは,彼らから金をいただくつもりらしい.
彼らなら金を盗まれても,どこにも訴えることはできない.
さらに少年は,みゆの情報も得ていた.
「ミユちゃんは,リナーゼの街の有名人だね.」
口もとは笑っているが,目が笑っていない.
「第二王子ライクシードか…….」
黒の瞳に,嫉妬の光が浮かぶ.
「誤解だと思いますよ.」
恐ろしさに声が震える.
「だってただのうわさでしょう? ミユさんが先輩を裏切るわけが,」
「分かっているよ.」
不機嫌な声にさえぎられて,スミは口をつぐんだ.
黒猫の体内で,暗い炎が燃えている.
みゆが他の男性に目をつけられるとは,スミは予想していなかった.
ウィルもそうだろう.
彼女は魅力的な女性ではあるが,異性の目をひくような派手な容姿はしていない.
それがなぜ,しかも王族と…….
もしかしたら王子にもその気はなくて,周囲が騒いでいるだけかもしれないが,それにしてもすごい.
王族という雲上人と知り合い,うわさになるなんて.

二日後,金貸しが再び家にやって来た.
彼はわざわざスミが休んでいる部屋に入ってきて,
「けがの具合はどうだい?」
と,悪寒が走るような笑みを見せる.
ウィルは男をベッドから引きはがし,金の入った袋を突きつけた.
「全額そろっているよ.」
「え?」
彼は袋の中を見て,目を丸くして驚く.
しかしにたにたと笑いながら,利子の分がないなぁと言い出した.
「元金だけでは駄目だ.利子も払うと契約書には書いていただろう?」
黒猫の目の前で,一枚の紙をひらひらとさせる.
「僕が署名したときには,そんな内容ではなかった.」
スミははらはらとしながら,二人のやり取りをベッドから見守った.
「読み間違えたのだろう.君は子どもだから仕方ないさ.」
子どもという単語に,ウィルの気が立ったのが分かった.
「なぁに,心配ない.君ならすぐに客がつく.」
俺が最初の客になってやろうと,男は少年のほおをなでる.
「君は本当にかわいいね.肌も少女のように美しい.」
鼻息を荒くして,脂ぎった顔を近づけた.
少年の体は怒りに打ち震え,
「僕は客を手荒く,もてなすよ.」
ぼうと,男の体が炎に包まれる!
「先輩!」
スミは制止の声を上げた.
炎は一瞬で消える.
だが男の服は焼け焦げて,髪はちりちりになった.
「へ? え?」
彼は事態がのみこめずに,目を白黒させる.
ウィルが一歩近づくと,「ひぃっ!」とのけぞった.
「契約書が燃えちゃったね.」
男の持っていた書類は,跡形もなくなっている.
「どうする?」
黒猫の問いかけに,金貸しは顔色をなくし,がたがたと震えだした.
「僕の最初の客になるの?」
ぶんぶんぶん,と首を振る.
「り,りりり利子はいらないです!」
彼は裸のままで,部屋から飛び出していった.
ウィルはスミの方を振り返って,にっこりとほほ笑む.
「元金もいらないみたいだね.」
床には,神聖公国の金貨が散らばっている.
体が燃えたときに,男が落としたものだ.
「この金で,僕とミユちゃんの分のベッドを買おう.」
金貸しについては何も触れずに,スミは「そうですね.」と同意する.
「それから中古品でいいから,食卓や食器棚もほしいなぁ.」
彼は正確に,黒猫の劣等感をついたのだ.
いや,恋敵への対抗心かもしれない.
ウィルの話によると,ライクシードは二十二才の立派な青年で,街中の女性があこがれる美形王子らしい.
対してウィルは十六才の少年で,十九才のみゆよりも年下だ.
そして女性にもてるどころか,男に言い寄られている.
もしかすると初めから,あの男の目的はウィルだったのかもしれない.
そもそもウィルが家を買う契約ができたのは,彼好みの容姿だったから……,
忘れよう.
スミはこっそりと決意する.
このことについて,これ以上考えるのはやめよう.
そして王子のことで,黒猫を刺激しないように気を付けよう.
ウィルとたわいのない話をしながら,スミは固く心に誓った.
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