水底呼声 -suitei kosei-

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  黒髪の聖女  

馬車の向かいの席で眠る娘の顔を,ライクシードはぼんやりと眺めた.
きっと彼女は疲れたのだろう.
昨日,この国に来たばかりだというのに,バウスに威圧され,セシリアに懇願されて.
揺れる馬車の中で,ぐっすりと寝入っている.
長い黒髪を見つめながら,ライクシードはセシリアのことを思い出した.
――サイザー様は,私の髪が気に入らないのよ.
何年か前に,少女はそう言って髪を切ろうとした.
「昔,聖女は皆,黒髪だったと言うわ.私みたいな下品で派手な色はしていなかったのよ!」
ライクシードはあわてて,少女からハサミを取り上げた.
「落ちついてくれ,セシリア.髪を切っても何もならないだろう?」
そんな理由で,せっかくの美しい髪を駄目にしないでほしい.
「それにラート・サイザーだって,黒髪ではないじゃないか.」
彼女の髪は,薄い水色をしている.
最近では加齢のために,ただの白色になっている.
それなのに,セシリアの髪に文句をつけるなんて.
憤慨したままで城に戻り,ことの次第をバウスに伝えると,
「ほぉ,ラート・サイザーはおもしろいことをおっしゃる.あなたの髪は何色ですかと,今からたずねに行こうか?」
静かに怒れる兄は,本気で提案する.
ライクシードは,次は兄の暴挙を止めるはめになった.
今,目の前にいる娘は,見事な漆黒の髪をしている.
みゆは,セシリアが考える理想の聖女なのかもしれない.
ふとライクシードは,自分が女性の寝顔をじろじろと眺めていることに気づいた.
恥ずかしくなって,窓の外の風景に目をやる.
しばらくすると,いつの間にか目を覚ました彼女が,同じように外を見ていた.
薄い眼鏡をかけた,異世界の女性.
細い手足をして,強い風が吹けば飛ばされそうな印象がある.
けれど,城で出された朝食はよく食べていたな.
ライクシードはくすりと笑んで,みゆに話しかけた.
「すまないね,セシリアがとんでもないことを頼んで.」
すると彼女も,柔らかくほほ笑む.
「いいえ.」
何かに気づいた顔をして,
「かばっていただいて,ありがとうございました.」
深々と頭を下げる.
顔を上げると,彼女の瞳には深い感謝の念が映っていた.
「どうか謝らないでください.殿下は本当によくしてくれています.」
意表をつかれてしまう.
こんな風に礼を言われるとは,思わなかった.
ライクシードは彼女のために,何もできていないのに.
彼女の笑みはきらきらとまぶしくて,まっすぐに見返すことができない.
「首都の街を案内するよ.」
強引に,話題を変えた.
感謝されることに,自分は慣れていない.
そして慣れていないことに,今,気づいた.
「どこか行きたいところや,見たいものはないかい?」
ライクシードは,自分が女性の扱いに慣れていないとは思っていない.
だがみゆは,どこか勝手がちがう.
異世界から来た女性だからなのか,王子であるライクシードに対して気負いを感じないのだ.
「図書館へ行きたいです.神聖公国のことを勉強したいので.」
彼女の答はまた,ライクシードを驚かせた.
「分かった.国立図書館へ行こう.」
「ありがとうございます.」
聖女になってほしいというセシリアの頼みを,まじめに考えているのだろう.
ライクシードはそう思い,納得した.

図書館に入ると,みゆはライクシードを無視して,ずんずんと突き進む.
真剣な横顔で,本棚に並べられた本を眺めた.
「この本なら読みやすいと思うよ.」
ライクシードは有名な著者の本を取り,手渡す.
「ありがとうございます.」
彼女は受け取ると,ぱらぱらとページをめくり,目を通した.
みゆは故郷で,大学校に入るための勉強をしていたらしい.
着飾ることしか興味のない貴族の娘とちがって,本を読むのは得意なのだろう.
館内を歩いていると,館長のナールデンと出会った.
ライクシードが紹介すると,あっという間に二人は打ち解けた雰囲気になる.
「ミユ? 珍しい名前だね.」
「よく言われます.私の姉の名前も変わっていて,“かや”というのです.」
「かわいらしい名前だ,あなたもあなたのお姉さんも.」
ありがとうございます,とみゆはうれしそうに笑った.
さらに彼女は,館長じきじきに本の貸し出し許可をもらう.
ライクシードは,妙に取り残された気分になった.
みゆはライクシードに対して,あまり気安くない.
それもそのはず,ライクシードは彼女に剣を向けたことがあった.
――私は武器を持っていません.
今でも自己嫌悪する.
――何を恐れて,私に剣を向けるのですか?
セシリアが見つからずに気が立っていたとはいえ,武器を持たない女性を剣で脅したなんて.
兄に比べて,自分はなんと度量のせまい人間なのだろう.
「ミユ,そろそろ城へ帰らないか?」
ライクシードは,無理やりに会話に加わった.
「あ,はい.すみません.」
彼女の瞳に,遠慮という透明な壁が立ちはだかる.
「いや,そうではなくて.」
謝罪させたいわけではないのに.
「リナーゼの街を歩かないか? 今は昼どきだから,屋台がたくさん立っているだろう.」
「屋台ですか?」
眼鏡の奥の瞳が,好奇心に輝く.
興味がひけた,とライクシードはほっとした.
ナールデンが愉快そうに笑い出す.
「殿下.また二人で,図書館に遊びに来てください.」
「はい.」
彼の笑みは意味深だったが,ライクシードには理由が分からなかった.
「行こう,ミユ.」
彼女を連れて,街へ出て行く.
彼女の心には別の誰かが住んでいることを,このときは想像できなかった.
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