水底呼声 -suitei kosei-

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  彼女の妹  

歩道橋の上ですれちがった女性に,弘孝(ひろたか)は足を止めた.
驚くほどに,似ていた.
学生のときに付き合っていた女性に.
「あ,」
思い至って,声を上げる.
彼女は――,
「みゆちゃん!」
階段を降りる女性を追いかけた.
長い黒髪の娘が,けげんな顔をして振り返る.
両目を見開き,あ,と声を漏らした.
「弘孝さん.」
すっと,みゆの顔が白くなる.
「ひさしぶりだね.」
弘孝は手すりに手をのせて,ぎこちなくほほ笑む.
彼女は妹だ.
二十才で短い生を終えた,古藤かやの.
かやと弘孝は,大学のサークルの新入生歓迎コンパで知り合った.
二人ともそのサークルには入らなかったが,何かと気が合って友人づきあいを始め,数か月後には恋人同士になっていた.
かやは,しっかりとした女性だった.
どちらかと言えば,まじめすぎるきらいがあり,ひょんなところで,もろさを見せる女性でもあった.
親の希望で法学部に入学したが,本当は別の学部がよかったと,あるとき打ち明けてくれた.
それでも家族を大切にする,心の強い女性だったと思う.
かやは,六つ年下の妹をとてもかわいがっていた.
姉妹でよく,買い物やカラオケに行っていたらしい.
だから弘孝は,すぐに妹に紹介された.
しかしみゆはずっと,ふてくされていた.
喫茶店の中で,ぶすっとした顔をして,チョコレートバナナパフェをスプーンでつついていた.
そして,弘孝はぶさいくだとか貧乏そうだとか,かやを困らせる発言ばかりをした.
大好きな姉をとられた気分になったのだろう.
けれど今,目の前にいる彼女には,そんな甘えたの中学生の面影はない.
何年も笑っていないような暗い目をして,弘孝を見つめている.
「すまない,いきなり声をかけて.」
弘孝は,彼女と何を話せばいいのか分からなくなった.
かやの通夜以来,みゆとは会ったことはない.
紺色のセーラー服を着た彼女は,心細げに背中を揺らしていた.
「ごめんなさい.」
みゆが,唐突に謝った.
「え? 何が?」
問いかけたが,顔をうつむけて答えない.
弘孝は,適当な話題を振った.
「学校帰り?」
「はい.今は予備校に通っています.」
彼女は,歩道橋近くのビルを振り仰ぐ.
大きな看板に,栄成(えいせい)予備校と書いてあった.
「そっか.」
あの小さかった女の子が,今は受験生か.
自分が就職したように,ときは確実に流れているのだ.
「がんばってね.」
適当に発した言葉に,みゆはびくりと震える.
「がんばっても,いいのですか?」
聞き取れるか取れないか,ぎりぎりの声だった.
彼女はまるで,幽霊だった.
なくなったかやは光の中でほほ笑んでいるのに,みゆは闇の中に立っている.
今にものみこまれてしまいそうに,表情は重い.
――君はまだ,あの事故から抜け出せていないのか.
痛々しく,哀れであった.
「姉さんのこと,ごめんなさい.」
再び,彼女は謝る.
「君が謝ることじゃない.」
そのとき,これ以上はない悪いタイミングで,胸ポケットの中の携帯電話が鳴り出した.
電話を取るべきか否か,弘孝は迷う.
みゆは頭を下げて,きびすを返した.
階段を降りていく.
弘孝はポケットから携帯を取り出して,液晶画面を確認した.
会社の同期からだ.
おそらく,大した用件ではない.
「すまん,後でかけ直す.」
通話ボタンを押して早口で言い,電話を切った.
階段の上から,みゆの姿を探すと,まだ近くを歩いている.
十分に追いつける距離だ.
だが,追いかけてどうする.
弘孝に,彼女が救えるのか.
かやの命は,あまりにも突然に失われた.
弘孝は大きく取り乱して,通夜の席で泣きわめいた.
――なぜ,かやがこんなことに!?
特急列車の脱線事故は衝撃的なニュースだったが,死者の数は少なかった.
たったの,六人.
ほとんどの乗客が,けがをしただけですんだ.
それなのに恋人は,――誰よりも助かってほしかった女性は,命を落とした.
運命というものを,あれほど呪ったことはない.
街の雑踏の中,みゆの背中は消えていく.
また,会う機会はあるか…….
弘孝は息を吐いて,予備校のビルを眺めた.
通っている学校は知れたのだし.
しかしその後,弘孝はテレビ画面の中で,このビルを見ることになる.
エリート予備校生三名失踪というテロップとともに.
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