水底呼声 -suitei kosei-

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  君の名前は?  

部屋の床いっぱいに,汚い靴が散らばっている.
小さいものから大きいものまで,古いものから新しいものまで,さまざまだ.
靴に囲まれて,一人の少年が床に座りこんでいる.
背中を丸めて,黙々と手を動かしていた.
そして壁には棚があり,手入れの終わった靴が並べられている.
おそらく,あの少年が仕上げたものだろう.
「スミ,仕事だ.」
スミの隣に立つ,黒衣の男カイルはつぶやいた.
独り言のように聞こえるが,これが彼の会話だ.
「おい,作業を教えてやれ.」
カイルは,靴をいじっている少年に呼びかける.
黒髪の少年は顔を上げて,にっこりとほほ笑んだ.
カイルは無表情のまま,部屋から出て行く.
スミはいささか,ほっとした.
仕事を与えられたということは,この城に滞在してもいいということだ.
これからは,食べるものと寝る場所の心配をしなくて済む.
スミは,ナイフを器用に操って靴を分解している少年に近寄って,友好的な笑みを浮かべた.
「よろしく.」
「よろしくお願いします.」
少年は礼儀正しく,あいさつを返す.
スミは床の靴をどかして,自分が座る場所を作った.
腰を下ろすと,黒髪の少年が一足の靴と布を差し出してくる.
スミが受け取ると,少年は自分の作業に戻った.
それを横目で眺めて,スミは靴をふき始めた.
「俺はスミ,ヒュドーから来たんだ.君は?」
「僕?」
少年は首をかしげる.
「名前,なんていうの?」
「名前は,ないよ.」
理解に苦しむことを,かわいらしい笑顔で告げた.
スミはちょっとの間,悩んでしまう.
だが気にしないことにして,別のことをたずねた.
「じゃぁ,年は? 年齢がないことはないだろ?」
「年は九才以上だと,国王陛下から聞いた.」
「国王!?」
スミの声は裏返る.
「王様と会ったことがあるのか?」
ただの下働きの子どもだと思ったのに.
「うん.内緒で,お菓子や本をくれるよ.」
ふいていた靴を,スミは手から落としてしまった.
「あ,あなた様は,何者でございますですか?」
変な敬語だ.
少年はにこにこと,さらに意味の分からないことを言う.
「僕は黒猫の子ども.大きくなったら,黒猫になるの.」
「黒猫? 何ですか?」
「カイル師匠を悲しませるものだよ.」
大きな瞳で見つめられて,どきっとした.
十日ほど前のことだ.
王国南西部の都市ヒュドーで,スミはカイルと出会った.
いや,出会ったという美しい表現はふさわしくない.
彼の財布をすろうとして,失敗したのだ.
取り押さえられ,役人に突き出されそうになったスミは開き直った.
俺は悪くない.
俺は親に捨てられた,かわいそうな子どもだ.
同情をして,財布ぐらいくれたっていいじゃないか.
俺の村は,海に沈んだ.
お前は俺に,村とともに海の底に行けというのか.
と,散々にわめきたてた.
するとカイルは,不思議なことを口にした.
「同じ年ごろか.」
誰と?
スミはまじまじと,黒髪の少年の横顔を見る.
同じ年ごろだ.
スミはこの少年と同じ年ごろだから,カイルに拾われたのだろうか.
彼は,お前の不幸の原因を教えてやると言い,スミをヒュドーから連れ出した.
城には昨日,着いたばかりだ.
いまだに不幸の原因とやらは,話してもらっていない.
だが旅の間,カイルはスミに食事を与えて,新しい服を買ってくれた.
さらに昨夜は,城の中の暖かいベッドで休めた.
寒くてつらい路上暮らしには,戻りたくない.
黒髪の少年は,靴を部品ごとに分けていく.
よく研がれた鋭いナイフを,慣れた手つきで扱っていた.
同じ年ごろで,名前はなくて,国王と会うことができる子ども.
「あなたのことを,何と呼べばいいですか? 黒猫様でしょうか?」
「陛下は僕のことを,ウィルと呼ぶよ.」
ナイフから目を離しても,少年の手は止まらない.
「ウィル様……,王様とは親しいのですか?」
「うん.でも,このことは秘密だよ.」
その瞬間,スミには少年の正体が分かった.
「あなたの父親は,どなたですか?」
「僕にお父さんはいないよ.」
やはり,と思う.
この少年は,国王の庶子なのだ.
周囲から,お前に父親はいないと言われているのだろう.
きっと母親の身分が低いとか家が貧乏だとか,そういった理由で,下働きをさせられているのだ.
だからカイルは,スミを城に連れてきた.
王子の助けになると期待して.
「ウィル様,俺があなたの味方になります.」
スミは体ごと向き直って,宣言した.
ウィルはかすかに驚いて,黒の瞳を見開く.
「困ったことがあれば,ぜひ俺を頼ってください.」
この王子に気に入られれば,スミは城にいられる.
逆に気に入られなければ,追い出されるだろう.
「困ったことはないよ.」
王子は優しく慈悲深い表情で,ほほ笑んだ.
「とりあえず,靴磨きは任せてください!」
スミは,どんと胸をたたく.
スミが,この勘違いに気づくのは三日以上後のことであり,それまでの間,ウィルを殿下と呼び,せっせと尽くすのであった.
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