水底呼声 -suitei kosei-

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  13−7  

ひとしきりみゆの魔法の練習に付き合うと,サイザーは所用があると言い,部屋から出ていった.
ウィルは,小箱に向かって呪文を唱えるみゆを眺めて,幸福感に浸る.
彼女とともにいること以上の幸せは,ウィルにはない.
そばから離れたくないが,気になることがあった.
「僕は図書室に行くね.」
適当な用事をでっち上げる.
「図書室?」
みゆは首をかしげた.
「妊娠や出産に関する本を借りてくる.」
ウィルは席を立つ.
みゆとキースとマージを残して,部屋から立ち去った.
廊下に足を踏み入れると,案の定,ちょっと離れた場所でサイザーが待っている.
しかし彼女は少し驚いている.
ウィルが近づくと,サイザーは話し始めた.
「よく気がつくのね.どのようにして,あなただけを呼び出そうか考えていたのに.」
サイザーからの目配せを,ウィルはしっかりと受け取った.
無視してもよかったが,彼女の用件には心当たりがある.
ただそれよりも,問いただしたいことがあった.
「ミユちゃんに取りいっているのは,なぜ?」
サイザーの表情がこわばる.
「新しい結界を作らせるため?」
みゆがそばにいないので,遠慮なく追求する.
ウィルには,サイザーと仲よくする理由はなかった.
彼女を目にすると,いまだに,彼女にナイフで背中を刺されたルアンを思い出す.
軽傷だったとは言え,忘れられない光景だ.
「そうよ.」
サイザーの老いた顔がかげる.
彼女は肯定したが,ウィルは,結界とは無関係だと読み取った.
ごく単純に,サイザーはみゆに好意を抱いている.
昼食前の会話で判明したが,みゆのつけていた髪飾りは,サイザーからの借りものだった.
髪飾りは,リアンの遺品の指輪とともに,みゆを守って壊れた.
どんな風にしてみゆは,サイザーを味方につけたのか.
スミ,ルアン,バウス,翔,キース,ほかにも大勢の人たち.
みゆは味方や友人を作るのがうまい.
「用件は何?」
ウィルは簡潔にたずねる.
「ユリのことをお願いしたいの.」
予想どおり,殺しの依頼だ.
もしもみゆが結界を作製できても,百合がまた壊す可能性がある.
たとえ百合が結界を壊さなくても,彼女の力は危険だ.
彼女の情緒は不安定で,行動は予測がつかない.
洞くつの中で,百合はみゆを殺そうとした.
ウィルは今後,百合をみゆに近づけるつもりはない.
が,百合は強大な力を持っている.
みゆとわが子を守りきる自信が,ウィルにはなかった.
けれど,
「断るよ.僕はもう殺人はしない.」
今なら,百合の息の根を止めることができる.
そして,今しかできない.
みゆたちの安全のために,今,行動すべきだ.
それでもなお,ウィルは再び手を血に染めたくなかった.
人を殺さないで,というみゆとの約束をやぶりたくなかった.
もしかしたら将来,百合を殺害しなかったことを後悔するかもしれない.
ウィルは,ひそかに悩み苦しんでいた.
殺人という単語に,サイザーはぎょっとする.
「ユリを殺すなんて,しかもそれをあなたに頼むなんて,するわけがないでしょう?」
ならば,何のために黒猫,――暗殺者だったウィルを呼び出したのか.
ウィルが首をひねっていると,サイザーが暗い顔で言う.
「ごめんなさい.私はあなたを,二度も殺そうとしたわ.」
「うん.」
二年前,ウィルは大神殿の地下で,サイザーの操る炎によって焼け死ぬところだった.
それから赤ん坊のときも,禁足の森に生き埋めにされるところだったらしい.
サイザーはひどく落ちこんでいるが,ウィルはさほど気にしていない.
「何を僕に頼みたいの?」
話をもとに戻す.
彼女は,つかの間黙ってから,
「ユリの力を封じこめるのを手伝ってほしいの.私ひとりでは無理なのよ.」
「封じこめる?」
いったい,どうやって?
「今ならできるわ.ユリは力の使いすぎで,弱っているから.」
「そんな便利な魔法があるの?」
みゆと子どもを守れないという悩みは,一瞬で吹き飛んだ.
「知らないの?」
サイザーは驚いている.
「僕の知識はかたよっているんだ.」
みゆと子どもを守るのに,ウィルとサイザーは協力できる.
髪飾りの件といい,サイザーは想像以上に頼もしい.
ウィルは彼女に,心から感謝して笑った.
「教えてちょうだい.すぐに,僕とひいおばあちゃんで実行しよう.」
彼女は目を丸くする.
「ひいおばあちゃんと呼んでくれてありがとう.」
喜んでいるのか,悲しんでいるのか,――懐かしそうでもある.
サイザーはゆっくりと,しわのある目じりに笑みを刻んだ.

百合のいる部屋は,外側からかぎがかけられて,廊下には見張りの兵士たちがいる.
二年前に結界を切ったみゆと同じく,百合も監禁されているのだ.
ウィルはサイザーとともに入室する.
魔法は道すがら教わった.
簡単なものだったので,それで十分だった.
百合はベッドに横たわって,何かを考えこんでいた.
「ユリ.」
サイザーが声をかけて,枕もとのいすに腰かける.
ウィルは,扉の近くに留まった.
「サクラに会う?」
サイザーの問いかけに,百合は首を振った.
「私は母親になれない.」
しばらく黙ってから,あきらめたように笑う.
「やっぱり日本へ帰るわ.髪がこれ以上,黒くならないうちに.」
彼女の髪は黒いが,毛先だけ茶色だ.
「この世界に来てからの私の記憶を消して,私を地球へ帰して.そうしたら私は,この世界に召喚される前の私に戻る.」
サイザーはとまどっていた.
「記憶を心の奥底に沈めるのはできるわ.けれど私には,異世界へ渡る力や知識はない.」
百合は緩慢に起き上がった.
そして,魔法の呪文を三つ唱える.
「この三つが基本.あとは適当に応用すれば,私を日本へ送れるわ.」
ウィルはびっくりした.
だが,ややあってから納得する.
百合はルアンとともに,カリヴァニア王国の城へ行った.
カイルに異世界へ帰してもらうために,向かったのだ.
しかしカイルは,すでに死亡している.
だから国王ドナートは,百合たちをカイルの部屋へ連れていった.
異世界へ帰る魔法を作る参考にしてほしいと,カイルの残した書きつけなどを見せたのだろう.
ウィルには理解できなかったものだが,百合たちには理解できた.
ところが百合は帰郷する気をなくしたので,ルアンは彼女を異世界に送らなかった.
「さぁ,私の記憶を消して.私にわが子を忘れさせて.」
「でも,」
サイザーは,ちゅうちょしている.
ウィルも,ためらいを感じた.
母親からわが子の記憶を取り除くのは,恐ろしいことに思えた.
「あなたはサクラの母親よ.大神殿で暮らせばいいわ.私が何としてでも,あなたを守るから.」
百合は虚をつかれたように,両目を見開く.
顔をゆがめて,泣くのをこらえた.
やがて深く頭を下げる.
「私は帰ります.だから,桜をお願いします.私の故郷でもっとも愛される,ピンク色のかわいらしい花です.」
サイザーは体を震わせた.
泣いているようだった.
百合は顔を上げると,サイザーの手を取る.
「あなたには,いっぱい世話になったわ.今までありがとう.」
なぐさめるように,笑みを作る.
「最後だから,教えるわ.大神殿に戻ってから,彼の声が聞こえる.」
彼とは誰だ?
ウィルは耳をすました.
「彼は私を,味方に引き入れたいみたい.本当に子どもね.彼は,」
百合はウィルの視線に気づいて,悲しげにほほ笑む.
「あなたは,私を裏切って利用したルアンの息子だから,教えない.」
ウィルにしゃべった後で,再度サイザーの方へ向く.
「あなたと大神殿の今後が心配.でも,きっと大丈夫.あなたには,ほかに生きる道がたくさんあるから.」
そうして百合は,魔法をかけた.
ウィルやサイザーが止める間もない.
百合の体はベッドに倒れ,両目はかたく閉じている.
何をされても,一日ぐらい眠り続けるだろう.
もう話すことはない,私を地球へ帰してと訴えているように思えた.
サイザーは,離れていった百合の手を見つめている.
涙をハンカチでふいて,百合に毛布をかけた.
「あなたは何度も,故郷へ帰りたいと口にした.神の塔で妊娠したときから,ずっと.」
意気消沈して言う.
「ウィル,記憶と力を封じましょう.異世界へ行くための祈りは,二,三日中には私が作るわ.」
「分かった.」
サイザーは,記憶に関する魔法もウィルに伝授した.
ウィルとサイザーは,百合の力と記憶を閉ざす.
これで百合は,けっしてわが子と会うことはない.
ウィルの心に,――多分サイザーの心にも,寒い風が吹いた.
はやくみゆに会わないと,凍えてしまいそうだった.
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