水底呼声 -suitei kosei-

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  12−15  

みゆは客室に戻って,用意されたマタニティ用の下着と服に着替えた.
そして少し寂しいが,小さな丸いテーブルでひとりで食事を取る.
妊娠が分かってから,気分はすっきりしていた.
つわりだと教わった瞬間に,つわりはなくなった気がする.
代わりに,腹がすいて仕方がない.
おなかが減りましたと訴えると,サイザーは昼食を用意してくれた.
彼女は,不思議なくらいに親切だった.
桜が産まれてから,サイザーが昔の優しい女性に戻ったというルアンの言葉を思い出す.
サイザーは,自分の娘や孫がなくなった悲しみで,ひ孫のウィルを恨んでいただけかもしれない.
あまりにもつらくて,耐えきれなかったのだろう.
だからと言って,産まれたばかりのウィルに八つ当たりをしていいわけではないが.
ぼんやりと食べていると,ひとりの兵士とひとりの女性が部屋に入ってきた.
「ミユ,ひさしぶり! 俺のことを覚えている?」
兵士の男は,陽気に話しかけてくる.
「君はまた『覚えていない.』と答えるだろうけれど,俺は君とウィルのことを,よく覚えているよ.」
中肉中背で,ライクシードと同じ年ごろだ.
「俺は,もの覚えだけはいいんだ.人の顔や名前をけっして忘れない.」
彼のよく回る舌が,みゆの記憶を掘り起こした.
「キースさん,おひさしぶりです.」
大神殿の門番をしていた青年である.
みゆとウィルに何度も声をかけて,おしゃべりをするな! とほかの兵士たちにしかられていた.
「今日から俺は,君の護衛になったから.」
予想外のせりふに,みゆは驚く.
「君と君の子どもを守りたいと,上司に頼んだんだ.実は,俺さぁ,」
キースの顔が,でれっと崩れる.
「結婚して,つい二か月前に,すっごくかわいい赤ちゃんが産まれた.」
「へ?」
そう言えば彼は,二年前は恋人ができたと喜んでいた.
「おめでとうございます.二年前に付き合い始めた恋人との間に,ですか?」
「そう! 彼女と結婚して,今では立派な父親さ.」
キースは,どんと胸をたたいた.
「大神殿で一番,妊婦と乳児の扱いに慣れている兵士は俺.だから何でも頼ってくれ.」
彼の勢いに押され,みゆはとりあえず「ありがとうございます.」と礼を述べる.
女性の方に視線をやると,彼女はみゆを見つめて,ぼろぼろと涙を流していた.
「どうしたのですか?」
みゆはぎょっとした.
五十代か六十代くらいの初老の女性で,泣きぼくろがある.
彼女とは初対面のはずだ.
「私の名前は,マージと申します.」
どこかで耳にした名前だが,どこだったか忘れてしまった.
「どうかあなたの赤ん坊の世話を,私にさせてください.」
彼女は泣くあまりに,床にへたりこむ.
「大丈夫ですか?」
みゆはいすから立ち上がろうとしたが,さきにキースがマージを立たせた.
「マージさん,座った方がいいよ.」
マージは遠慮したが,キースは彼女を,みゆの向かいのいすに座らせようとする.
みゆもマージに着席を勧めた.
マージはいすに腰を落ちつけると,再び泣いた.
「夢のようです.」
キースがハンカチを渡すと,彼女はあっという間にそれを涙でぬらす.
「ラート・リアンの子どもの,そのまた子どもがあなたのおなかの中にいるのですね.」
ラート・リアンの子どもとは,ウィルのことだ.
「あなたは,リアンさんのお知り合いだったのですか?」
マージは初めてほほ笑んだ.
「私は,乳母のうちのひとりでした.けれど,ラート・リアンの忘れ形見を守れませんでした.」
暗く,うつむく.
「ラート・サイザーと神官長に赤ん坊を奪われ,私はラート・ルアンとともに牢に入れられました.」
みゆは,ルアンから聞いた話を思い起こした.
当時十五才だったルアンは,赤ん坊,――息子であるウィルを奪われて牢に入れられた.
「赤ん坊の殺害に反対して,牢に入れられたのは二十人ぐらいでした.」
マージの告白は続く.
「赤ん坊は禁足の森に埋めたと神官長に言われ,私は大神殿から出て行きました.」
マージだけではなく牢にいた人たちはほぼ全員が,失意のうちに大神殿を去った.
「ですが半年ほど前に,殺されたはずの子が生きていると,古い友人が手紙を送ってくれました.」
マージはいてもたってもいられずに,昔のツテを頼って大神殿に復職した.
が,すでにウィルもルアンも大神殿にいなかった.
しかし今,やっとみゆと会うことができたのだ.

マージたちと談笑しながら食事を取った後,サイザーが部屋にやって来た.
マージは,過去を思い出しているのだろう,顔をこわばらせる.
両手も,小刻みに震えている.
サイザーは気まずそうにマージを見てから,みゆに向かって,
「ここで子どもを産み,育ててもいいわよ.」
とそっけなく言った.
「大神殿は代々の聖女の出産を行うから,慣れているのよ.医者も産婆も大勢いるわ.ここは,この国でもっとも安全に産める場所よ.」
居心地の悪そうな様子で,大神殿での出産を勧める.
すでに,部屋も服も食事も与えて,マージとキースもそばにいるのに.
むしろみゆの方が,頭を下げなくてはならない.
神の塔に入った結果の妊娠ではなく,個人的な妊娠なのだから.
サイザーは返事を,――多分,はいという返事を待っている.
そうか,彼女は不器用なのだ.
みゆはにこりと笑んで,頭を下げた.
「ありがとうございます.お世話になります.」
サイザーは面くらった表情をしてから,顔をそむける.
「食事は取ったの?」
「はい.」
「そう.でも食べ過ぎは駄目よ.あと,甘いものは我慢しなさい.それから体を,――特に下半身を冷やしてはいけないわ.」
「分かりました.気をつけます.」
彼女は落ちつきなく片手で腕をさすってから,部屋を出て行こうとする.
だが扉のところで立ち止まり,振り返った.
「私はあなたを,首都神殿の一室に七日間も監禁したわ.」
みゆはうなずく.
サイザーは,しばし口にすべきか迷ってから,
「ウィルとルアンを殺そうとしたわ!」
さきほどのマージの話が,脳裏によみがえる.
けれどみゆは,ほほ笑んだ.
「私は今,あなたを憎んでいません.」
結果として,ウィルが殺されなかったからかもしれない.
そしてみゆは,マージたちのように,実際に赤ん坊を取り上げられて牢に入れられたわけでもない.
サイザーは顔を悲しみにゆがませて,逃げるように部屋から立ち去った.
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