水底呼声 -suitei kosei-

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  12−7  

ひどい貧血に襲われたみゆは,スミに抱きかかえられて,寝室まで連れていってもらった.
ベッドに横たわっても,気分はすぐれない.
「医者を呼んできます.」
心配そうにまゆを下げるスミに,笑顔を見せるのもしんどかった.
「旅の疲れが出ただけだから,必要ないわ.」
実際に疲れたのかもしれない.
最初は,神聖公国に行ければ,カリヴァニア王国は救えると思っていた.
次は,暗号の本を解読できれば,解決策は見つかると考えていた.
次の次は,移住できれば,と.
前に進んでも進んでも,ゴールにたどりつかない.
カリヴァニア王国は救えない.
みゆの大切な人々をのせたまま,大地はしずむ.
ウィルはあきらめて,みゆを逃がした.
急に眠くなり,みゆはまぶたを閉じた.

スミとみゆが寝室に消えたのを見届けた後で,バウスはマリエとともに廊下から近くの部屋に入った.
バウスは神聖公国の王子として,みゆに結界を壊すなとくぎをさした.
そして私人としては,彼女を保護してほしいというライクシードの遺言を守るのみだ.
弟のために,これ以上のことは何もできない.
バウスは,無力さをかみしめていた.
「殿下,私の考えを聞いてください.」
マリエの声に,のろのろと顔を上げる.
驚くことに,彼女はほほ笑んでいた.
「なんの吟味もせずに暗号の本の内容を信じるのは,危険ではありませんか?」
彼女の表情は明るく,瞳には力がある.
「国中の本を調べて,裏づけが取れるか確認しましょう.」
「しかし,カリヴァニア王国について書かれた本は,あれらしかないぞ.」
呪われた王国ゆえに,記述を禁止されているのだ.
「はい.ですが,もしも暗号の本に書かれたことが真実ならば,女の神の殺害は498年前にわが国で起きたことです.」
バウスは,マリエの言おうとしていることに気づく.
「神聖公国で起きたことならば,記録が残っているはずだ.」
ましてや,神の殺害は大きな事件だ.
なんらかの形で書き記されているにちがいない.
「そうです.専門家たちに調査を依頼しましょう.」
「待ってくれ.」
バウスは反論した.
「もしも裏づけが取れても,事態は変わらない.そして裏づけが取れなければ,」
つまり,暗号の本が信用できないとなると,
「何も分からなかったころに戻るだけだ.」
「そうかもしれません.けれど調べることによって,新しい事実が出てくる可能性もあります.」
彼女のほほ笑みは,希望に満ちていた.
「私はその可能性にかけたいのです.それにこれは,私ひとりの意見ではありません.」
バウスは,はっとして思い出す.
「ドナート国王の意見でもあるのか.」
「はい.」
親書には,暗号は解読できたが,疑問が多々残ると書かれていた.
その疑問が,神聖公国の歴史を見直すことによって,解けるのかもしれない.
「私はあきらめません.あなたが絶望のふちにいるときこそ,大丈夫だと笑ってみせます.」
「マリエ.」
バウスは,婚約者の名前を呼ぶ.
確かに,自分は絶望のふちにいた.
弟を救えないことを嘆くばかりだった.
「文献調査は君に任せる.――そうだ,適役じゃないか.」
彼女は,国立図書館の館長ナールデンの孫だ.
ナールデン自身も文献調査の専門家だが,さらに彼は全国各地の学者たちともつながっている.
バウスはつい三日前に,ナールデンを含むマリエの家族に会いに行った.
結婚式の準備を始めることを報告するために.
「すまない.式の話は当分の間,白紙に戻す.」
彼女はうれしそうに両目を細めた.
「はい.家族にそう伝えておきます.」
バウスは苦笑する.
「喜ばないでくれ,俺は今すぐにでも結婚したいのに.」
「あなたの次のせりふが予想できるのですから,仕方ありません.」
結婚を後回しにするのは,新しい仕事ができたから.
「まだ二年も猶予が残っている.あきらめる必要はない.」
すでに頭は回り出している.
文献調査以外にも,やれることがあるはずだ.
どん底でも立ち上がれる力を,彼女は与えてくれた.
バウスはマリエを抱きしめた.
細い腕が,そっと背中に回される.
彼女は本当にすばらしい女性だと,心から思った.

同じころ,カリヴァニア王国の王都では,ルアンが宿屋の二階の窓からぼんやりと外を眺めていた.
街道では,大勢の人たちが行き交っている.
荷車に野菜を乗せて引いている若い男,子どもの手を引いて歩く老女,大きな荷物を担いだ旅人.
まさか百合が,自分に黙って,王都を出るとは想像していなかった.
おのれのことで手いっぱいで,周囲の人々を思いやれない百合らしい,とルアンは苦笑する.
今,ウィルはどこで何をしているのだろう.
ルアンの思考は必ず,息子のところへゆく.
そろそろ世界の果ての洞くつで,恋人と別れるころだ.
それとも,もう彼女を送り出した後か.
「満足かい,ウィル?」
愛する女性を,水没する王国から逃がして.
国王から移住の話を聞いたとき,ルアンはいい案だと感じた.
けれどその後で,ウィルから移住は不可能と説明された.
ウィルは,ライクシードから教わったらしい.
ウィルとライクシードの仲がいいのは妙なことだが,ふたりは利害が一致していた.
守りたい女性が,同じ人だった.
ウィルはルアンに,みゆには内緒にしてほしいと頼んだ.
カリヴァニア王国で,移住はできないと知っているのは,ウィルとライクシードだけである.
ルアンは,わが子の望みどおりにした.
王都から出発するウィルとみゆに,笑顔で手を振った.
手をつないで歩くふたりの後ろ姿を見送って,ルアンはひとつのことを決意した.
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