水底呼声 -suitei kosei-

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  11−9  

中はホールだった.
テーブルやいすがたくさん置いてある.
ただ使われていないようで,ほとんどのものが端に寄せてあった.
閉店し,長い時間が過ぎたレストランと推察できた.
だが,掃除は行き届いている.
ほこりやゴミなどはなかった.
「ミユちゃんを連れて帰ってきたよ!」
ウィルの声にこたえて,二階へ続く階段から一人の中年女性が駆け降りてくる.
エプロンをして,長い髪はひとつにまとめている.
地味な装いで,けっして若くはない.
しかしはっきりとした目鼻立ちの,華やかで美しい女性だった.
女性はみゆとウィルをまじまじと見つめた後で,
「おかえりなさい.」
と,泣き崩れた.
「エーヌさん,どうしたの?」
しゃがみこむ彼女のもとへ,ウィルが歩み寄る.
みゆはその名前に聞き覚えがあった.
ウィルの口から何度も出てきた名前だ.
初めて登場したのは,大神殿でルアンと会話していたとき.
「僕は,たとえ僕がどんな存在で何をしていても,愛してくれる人がお父さんだと習った.」
「エーヌさんが教えてくれた.愛することは,優しくほほ笑みかけること,柔らかく抱きしめること,素直に自分の気持ちを伝えること.」
ウィルのせりふに驚き,非常に照れたのでよく覚えている.
ウィルは,エーヌの教えを忠実に守っている.
彼女が愛情を持ってウィルに接していたことは,ウィルの言葉の端々から感じられた.
そしてエーヌは娼婦だと聞いた.
すると,この建物は,
「娼館?」
風俗店だと考えれば,合点がいく.
一階がお酒を飲む場所で,二階が,日本で言うところのラブホテルだ.
みゆがあぜんとしていると,エーヌがウィルを突き飛ばす勢いで突進してきた.
「ごめんなさい,ミユさん.不快でしょうけれど,ここはもう営業していないわ!」
みゆの肩をつかみ,言い募る.
「ウィルはあなたを裏切っていない.嫌なうわさはあるけれど,お願い,信じてちょうだい.」
「は,はい.」
迫力に押されてうなずくと,彼女はほっと胸をなで下ろした.
エーヌはエプロンで涙をぬぐって,こちらをうれしそうに眺める.
みゆがウィルに視線をやると,彼は微笑した.
「二年前に国王陛下から,ほうびをもらったんだ.その金で娼館を買ったの.」
簡単にしゃべるが,娼館が買えるとはどれほどの大金だったのだろう.
みゆは,シャーリーに対して申し訳なくなる.
ウィルが娼館を買い娼婦とともに暮らしているという彼の主張は正しかったからだ.
内実は,まったく異なるが.
「ウィルに買われた娼婦は全員,故郷へ帰ったわ.皆,とても感謝している.」
エーヌがほほ笑む.
「それぞれの故郷に帰った女の人たちには,ミユちゃんの捜索を手伝ってもらっていたの.」
ウィルは,途中の街で会った何人かの女性がそうだと告げる.
「私だけはここに残って,家政婦として働いているのよ.」
エーヌはただの雇われ人ではないと,みゆは思った.
家に帰ってきたウィルを,おかりなさいと迎える家族なのだ.
「初めまして,エーヌさん.」
みゆは笑んで,手を差し出す.
「あなたに会えてうれしいわ.ミユさん.」
エーヌは,大切なものに触れるようにそっと手を取った.
「ウィル,彼女に会わせてくれてありがとう.」
ウィルは顔をほころばせる.
「旅で疲れているでしょう? こんな場所で悪いけれど,お茶を用意するわ.」
エーヌはホールの奥へ消えていった.
「お茶を飲んだ後で,城へ行こう.」
ひとつだけ使える状態にしてあるテーブルのところへ,ウィルはみゆをエスコートする.
「ドナート陛下に会うために.」
夜を映す瞳の色が深くなる.
だがお茶の到着とともに笑みを作り,みゆも意識して不安を追い払う.
暗号本の内容は,国王が説明してくれるはずだ.

たどりついた城は,しんとしていた.
城門に門番の兵士が二人立っていたが,前庭には誰もいない.
雑草と思わしきものがよく茂っている.
開きっぱなしの玄関から入ると,ホールもまた無人だった.
廊下を歩くと薄暗く,照明が三つにひとつは消えている.
隅にはほこりがたまり,窓はくすんでいる.
「ウィル,これは?」
みゆが王城に滞在していたときは,こんなにもさびれていなかった.
神聖公国の城に比べると貧相だったが,城としての体裁は整っていた.
「去年,大勢の人がやめたんだ.」
「何かあったの?」
「特別なことがあったわけじゃないよ.」
ウィルは答える.
「陛下は『沈む泥船からねずみが逃げるようなもの』と言っていた.」
王国の滅亡は,差し迫っている.
あと二年だ.
「今,城にいるのは,ある程度事情を知っている人たちだけ.」
彼は足を止めて,みゆのほおをなでる.
「ならツィムは,」
あごをつかまれて,いきなり唇をふさがれた.
強引な口づけの後で,みゆは怒った.
「いくら人がいないからといって!」
「人ならいるよ.」
ウィルは意地悪くほほ笑んで,後ろを振り返る.
みゆは彼の体ごしにのぞきこんで,げっと声を出しそうになった.
廊下の向こうに,ライクシードと百合がいる.
二人とも,ぶぜんとした表情をしていた.
なんという悪趣味なことをするのだ,ウィルは!
みゆは恋人をにらみつけたが,彼はどこ吹く風だった.
「ウィル,」
ライクシードがやって来ようとする.
しかし彼の歩みを,百合が手を伸ばして止めた.
「すまない.ちょっと待っていてくれ.」
ライクシードは彼女の手を外す.
「今,戻ったのか?」
ウィルに声をかけながら,やって来た.
「うん.」
ウィルは,にこやかに応対する.
「手紙を届けさせてくれてありがとう.」
シャーリーが隠した,カーツ村の村長からの手紙だ.
ライクシードは苦笑する.
「君が笑顔を見せるなんて怖いな.」
「僕だって不愉快だよ.――陛下は?」
言葉に反して,ウィルはにこにこしたままだった.
「彼は会議中だ.それから,君の父上が城へやって来た.」
七,八日ぐらい前のことだ,とライクシードは話す.
「今はどこに? 城の中?」
「いや,王都の宿に泊まっている.」
彼は,宿泊先の名前と場所を教えた.
ウィルはみゆに,先にルアンに会おうと提案する.
みゆは了解してから,ふと気づいた.
一度も,ライクシードと目が合っていないことに.
彼の口もとは弧を描いているが,視線は不自然にウィルに固定されていた.
「教えてくれて,ありがとう.」
ウィルは礼を述べると,みゆの手を引いて来た道を戻る.
ライクシードがみゆを見ないのは,先ほどのウィルの行動のせいだ.
胸が苦しくて,やるせない.
ライクシードの望みは,かなえることができない.
みゆはウィルと手をつないで,静かすぎる城から出て行った.
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