水底呼声 -suitei kosei-

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  10−8  

バウスは,旅のために二頭の馬を与えてくれた.
大神殿の前庭で,みゆたちは一頭の馬に荷物を乗せ,もう一頭の馬に百合を乗せる.
スミが禁足の森まで同行すると言うので,みゆは喜んだ.
「本当は,ウィル先輩のところまで送りたいのですが.」
すまなさそうに謝る.
「大丈夫よ,スミ君.」
みゆは,少年の顔を見上げて笑った.
「ルアンさんがいるから,心配しないで.」
「はい.」
スミは笑みを返してから,ルアンに「お願いします.」と頭を下げた.
そして二人は,二言三言相談めいたことを話す.
みゆたちの旅立ちに,見送りの者はいない.
昼下がりの庭に太陽の光だけが落ちて,寂しい風景だった.
百合は黙って,うつむいている.
みゆは彼女に,わが子と別れていいのか聞きたくなった.
ルアンによると,桜は今,一才である.
まだまだ母親が恋しい年ごろだ.
けれどみゆは唇を閉ざし,視線を外す.
百合の口からは一度も,子どもの名前が出てこなかった.
「行こう.」
ルアンが百合の乗っている馬を引いて,みゆとスミを促す.
歩き出したとき,子どもの泣き声が耳をつんざく.
みゆはどきりとして,立ち止まった.
幼子を抱いたサイザーが,建物から姿を現した.
子ども,――桜は百合に両手を伸ばして,大声で泣いている.
「早く,早く出発して!」
百合がおびえたように叫ぶ.
サイザーはこちらには近づかず,ただ見つめていた.
悲しげな目をして.
「さようなら,サイザー様,サクラちゃん.」
ルアンがつぶやいた.
桜が泣いている.
サイザーの腕から落ちそうなくらいに激しく.
小さな体をすべて使って,母親に行かないでと訴えかける.
光る涙の粒が,柔らかいほおに流れた.
「白井さん!」
こらえきれずに,みゆはたずねた.
「子どもを置いていっていいの?」
突然,腕を後ろに引っぱられる.
みゆを打とうとした百合の手が,空を切った.
「あなたには関係ない!」
スミの腕の中に,みゆは守られた.
ルアンが,みゆと百合の間に入る.
「仕方ないじゃない,放っておいて.」
百合は激情のままに,彼をたたき続けた.
「私は日本へ帰りたいの!」
瞳から,涙があふれる.
そのしずくの色は,みゆには読み取れない.
もはや彼女は,みゆの知っているクラスメイトではない.
ルアンは,興奮する百合の腕をつかんだ.
「余計なお世話だよ,ミユちゃん.」
振り向いて告げる.
安易な同情は彼女には届かない,と.
みゆの肩を抱く,スミの手に力がこもった.
「はい.」
みゆはうなだれた.
スミは乱暴にみゆの手を取り,門へ向かって進む.
もう片方の腕で,荷物を乗せた馬を引いた.
背後を見ると,ルアンが号泣する百合をなだめている.
「俺,ラート・ユリだけは好きになれません.」
スミが,かたい声を出す.
「許せない.」
少年の背中は怒っていた.
そしてそれ以上に,傷ついていた.
みゆの手を痛いぐらいに握っている.
スミは自身の過去を目の当たりにしたのだ.
少年は振り返らずに歩き続けた.

夕刻,みゆたちは禁足の森にたどり着いた.
森は,二年前と同じく厳重に警備されている.
スミが兵士のひとりに書面を提示した.
「バウス殿下のご命令です.」
「承知しました.」
すんなりと森の内側へ通される.
スミは,騎士としての振る舞いが板についていた.
カリヴァニア王国へ続く洞くつの前まで来ると,ここにも兵士たちがいた.
スミは彼らにも,同じように説明をする.
今度は顔見知りなのか,気さくにしゃべる.
それからスミとみゆは,別れを惜しんだ.
「落ちついたら,ときどきでいいですので,遊びに来てください.」
「うん.スミ君も元気でね.」
少年はほほ笑んだ.
「ミユさんこそ,お気をつけて.ウィル先輩とはきっと,すぐに会えますよ.」
先輩もあなたを探していますから,と話す.
「ありがとう.」
みゆは手を振って,洞くつへ入った.
スミと,ほかの兵士たちも手を振り返してくれる.
隣を歩くルアンが,笑みを投げかける.
「ウィルに会いに行こう.」
「はい.」
百合のみが,暗い顔つきをしていた.
息子を探すルアンに,娘を捨てた百合.
みゆは意識して,前を向く.
出口は,じきに見えるはずだ.

みゆたちの背中を見届けた後,スミはぼうと立ちつくす.
このようにみゆと再会するとは,想像していなかった.
昨日バウスから知らせを受けて,大急ぎで大神殿へ向かった.
みゆは,二年前に別れたときとまったく変わっていなかった.
優しく聡明で,スミにとってもっとも神聖な女性のままだった.
背が高くなったねと,うれしそうに細められた黒の両目.
しかし眼鏡の奥の瞳は,別の人も映していた.
――ウィルも背が伸びているかな?
口に出さない彼女の気持ちを,少年は感じ取った.
百合が無理やりに,みゆを呼び寄せたのだ.
自分勝手な女性だと思っていたが,こんなことまでやるとは.
スミは彼女が嫌いだった.
聖女になったのはセシリアのせいだと,セシリアをひどく責めたからだ.
今回の件で,さらに嫌いになった.
そして許せなくなった.
いまだに子どもの泣き声が耳に残っている.
なぜ母親は,子どもを捨てることができるのだろう.
子どもは母親を,心から追い払うことすらできないのに.
いつまでも捕らわれたまま,苦しみ続ける.
スミは洞くつの見張り番たちに別れを告げて,森の外へ向かった.
むしょうに悔しかった.
悲しみより,怒りが勝った.
いや,怒りを奮い立たせないと,悲しみの海におぼれそうだった.
「スミ.」
名前を呼ばれて,足を止める.
「セシリア?」
周囲を見回す.
銀の髪の少女が,森の奥から出てきた.
何も言わずに,にこりとほほ笑む.
だが心配してここまで来たことが,スミには分かった.
ウィルがみゆの声を聞くように,セシリアはスミの声を聞く.
そうとしか考えられない言動をする.
セシリア自身は自分はにせものだったと自嘲するが,まさに奇跡の力を持つ聖女.
うぬぼれていいならば,スミのためだけの.
「また城から抜け出したのか?」
わざと,あきれた表情を作った.
「今日は,置手紙に行き先を書いたわ.」
少女は得意げに,指を立てる.
「それでもバウス殿下にしかられると思うなぁ.」
近づいてきた少女に,腕を伸ばした.
「城に帰ったら,一緒に謝ってね.」
セシリアは楽しそうに笑う.
「仰せのままに,わが姫君.」
心のすき間を埋めるように,いとしい人を抱きしめた.
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