水底呼声 -suitei kosei-

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  10−5  

ルアンのせりふに,みゆはとまどった.
「いいのですか?」
聞いたとたん,百合にきつい目つきをされる.
「私は日本へ帰っちゃ駄目なの?」
「そういう意味じゃ,」
彼女のかんしゃくに,みゆは押される.
百合とは視線を合わせないで,ルアンに改めて質問した.
「ルアンさんは大神殿から出てもいいのですか?」
リアンのそば,つまり墓から離れたくないのでは?
彼は,にっこりとほほ笑む.
「僕がいなくても,この国は大丈夫だよ.」
会話がすれちがった.
「新しい聖女のサクラちゃんがいるからね.」
みゆは首をかしげる.
「ユリの子どもだよ.」
胸をつかれる思いがした.
サクラ,――桜は日本の花だ.
当然ながら,百合が名づけたのだろう.
「あの子が産まれて,大神殿は光を取り戻した.」
ルアンの顔は明るい.
が,少しわざとらしく見えた.
「みんないきいきしている.サイザー様も昔の優しいおばあ様に戻られた.」
みゆは,優しいという印象は受けなかった.
ルアンは楽しそうに笑う.
「彼女が声を立てて笑うなんて,想像できないだろう?」
「はい.」
多少の遠慮を感じたが,――サイザーはルアンの祖母である,同意した.
「それに僕にも打算がある.」
彼は,みゆが首からかけている指輪をつまむ.
「リアンに会いたい.」
かがみこみ,唇を寄せた.
「君についていけば,会えるかもしれない.」
息が首にかかり,みゆは真っ赤になって立ちすくんだ.
「いや,彼女に会えなくても,――ウィルに会いたい.君のそばにいれば,必ず息子と会える.」
声がかすれ,切ない想いが伝わってくる.
「ルアンさん.」
離してほしいと,彼の胸を押した.
「君が僕たち親子を結びつけてくれる.いくら感謝してもしきれない.」
ルアンは指輪から離れた.
黒の瞳がみゆを通り越して,遠い場所を眺めている.
「私には,疫病神だわ.」
百合が吐き捨てた.
「私は利用されたのよ,子どもを産む道具として.」
枯れ木のような体が震える.
「承知の上で,聖女になったのではないかい?」
ルアンの声は穏やかだが,しんらつだった.
「だまされたのよ!」
百合は叫び,足音高く部屋から出て行く.
乱暴に扉が閉まり,みゆは追いかけようかと迷った.
「追いかけてはいけないよ.」
ルアンが忠告する.
「安易な同情は彼女には届かない.僕たちにできるのは,故郷へ帰すことだけだ.」
突き放した言い方だった.
けれど,事実だと思った.
百合の望みは,子を授かったときから,故郷へ帰ることだ.
「神聖公国を出る前に,バウス殿下にはあいさつしておこう.」
ルアンはダイニングテーブルに向かって座り,手紙を書きはじめる.
みゆは所在なく,ソファーに戻った.
カリヴァニア王国へ戻るのに彼が同行してくれるのなら,これ以上に心強いものはない.
それにしても,二年もたったとは!
タチの悪い冗談のようだ.
「ルアンさんは変わらないですね.」
髪の長さもほほ笑みも黒一色のローブも,二年前のままだ.
部屋の様子もそうだ.
テーブルもソファーも,花びんにいけられている花でさえ同じに見える.
さきほどみゆがこぼした,お茶の味も.
「リアンが変わらないのに,変わるわけにはいかないよ.」
ひとりごとみたいな返事が,宙に浮いて消えた.

百合は一人,廊下を大またで歩いた.
すれちがう神官たちは,態度だけはうやうやしく道を譲る.
いったい,何を間違えたのか.
自分の人生は,こんなはずではなかった.
地球へ帰りたい.
しかし帰っても,居場所はない.
二年も百合を待っている人などいない.
家族も友人も.
多分,百合なんか探していない.
一緒に召喚された翔もこの世界のことなんか忘れて,日本で普通の生活を送っているだろう.
百合のなれなかった京大生になって.
「うっ,」
目から涙が落ちる.
ルアンもひどい男だ.
彼は以前,百合に一人でカリヴァニア王国へ帰りなさいと話した.
なのに,みゆが行くと言ったとたん,意見を変える.
彼女のために.
それとも,息子のためなのか?
どちらにせよ,ルアンにとって百合はまったく重要ではない.
うずくまって泣いていると,一人の兵士が声をかけてきた.
「ラート,部屋へお戻りください.」
遠慮しつつも,腕をつかみ立たせる.
「行きましょう.」
腕を引っぱり歩き出した瞬間,幼い子どもの声がした.
百合は振り返る.
声は,廊下の角から聞こえた.
大人たちの笑いさざめく声もする.
「こちらへいらっしゃい,ラート.」
「いいえ,私の方へ.このおもちゃ,大好きでしょう?」
しゃらしゃらと,鈴の音が鳴る.
百合は立ち止まった.
桜と,桜の乳母たちだ.
三人いる乳母だけではなく,大神殿の者たちはみんな,桜を真綿でくるむように育てている.
たまにやって来るバウスやほかの王族たちも,目じりを下げて子どもをかわいがる.
桜は,国でもっとも大切にされる子どもだった.
百合は今では,子どもの世話をほとんどしていない.
桜が産まれて数か月ぐらいまでは,自分なりによい母親になろうとがんばった.
母乳を与えて,おもつを替えて,添い寝をして.
子どもがかわいいと,心から言えた.
同じ聖女であるサイザーともルアンとも,仲よくやれた.
でも少しずつ,うまくいかなくなった.
そして育児をさぼっても,桜の面倒は別の人たちが見る.
兵士の男が,無言で百合の腕を引いた.
子どものいる場所から離そうとする.
子どもを守るために.
百合は何度か,感情的に桜をどなったりなぐったりしてしまった.
百合は泣いた.
涙はとめどなくあふれた.
泣いても,兵士は強引に歩かせる.
「どうぞ落ちついてください.」
うわっつらのみの言葉を投げかけた.
「私,地球へ帰るわ.」
百合はつぶやいた.
桜をおなかに宿していたときには効果のあったせりふだが,今は兵士は何も口にしない.
「好きにしてください.もうあなたは必要ありませんから.」
すべての人が,そうささやいている気がした.
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