水底呼声 -suitei kosei-

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  10−4  

「何の用なの,ルアン?」
百合は不機嫌な顔でにらみつけた.
「あなたは黒猫なのだから,地下から出てこないで.」
ルアンは,みゆを背後に押しやる.
二人の間を緊迫した空気が流れたが,神官の男が場を取り繕う笑みを見せた.
「今日の昼食は豆を甘く煮たものを出すと,調理場の者が申しておりました.」
「はぁ?」
唐突な話題に,百合がいらっとする.
「行こう.」
ルアンは振り返り,みゆの肩を抱いて歩かせる.
背中に,視線が刺さった.
しかし彼は振り返らない.
後方を警戒しつつ,一歩一歩離れていく.
みゆは黙って従った.
ルアンは無言で進み,階段を降りてから緊張を解く.
ろうそくの炎が揺れる地下の廊下で,向き合った.
「ユリが君を連れてきたのだね.」
「はい.」
彼は軽く息を吐く.
「ごめんね,ミユちゃん.僕が聖女の技を教えたせいだ.」
「いえ,あなたの責任ではありません.」
「今ごろ,ウィルは怒っているだろうなぁ.すぐに君をカリヴァニア王国へ帰さないといけない.」
ルアンは苦笑する.
だがみゆは,血まみれで泣いていた少年を思い出して,ぞっとした.
様子のおかしくなったみゆに,彼はまゆを寄せる.
けれど,何から話せばいいのか.
あまりにも多くのことがあった.
いや,最初に伝えなくてはならないことは,
「私,リアンさんに会いました.」
ときが止まる.
ルアンの表情は凍りつき,きしみを立てた.
「何を言って?」
驚きなのか,とまどいなのか.
みゆの発言を信じればいいのか疑えばいいのか,分からないという風だった.
「この指輪のおかげです.」
首からかけている指輪を示す.
「とても背が低くて,髪がすごく長い,十五才くらいの女の子でした.」
右手の薬指に指輪をしていたと口にすると,ルアンの表情は溶けた.
悲しみ,喜び,いとおしさ,懐かしさ.
読み取れないほど多くのものが混じっていた.
「あなたへの伝言を預かりました.」
「うそだ!」
ルアンは叫び,みゆの両肩を揺さぶる.
「なぜ僕のもとに来ない?」
責めるように言ってから,気まずそうに視線を外した.
みゆは答えられずに,ただ言葉を告げる.
「いつまでも愛していると.」
黒の瞳が見開く.
次の瞬間,みゆは抱きしめられた.
大人の男の人の,大きな体が震えている.
声を上げずに,泣いている.
こんなにも切ない抱擁は初めてだった.
リアンの涙がよみがえる.
誰よりも会いたいと願っている二人なのに.
会わせることができない,ぬくもりさえ伝えられない.
せめて,とルアンの体に腕を回した.
しばらくたつと,
「僕の部屋で話そう.」
彼は離れて,背中を向ける.
廊下を歩いていくので,みゆはついていった.
部屋に入ると,ルアンはすっと姿を消す.
みゆは探さずに,ソファーに座った.
ぼんやりと待っていると,涙の跡を消したルアンが戻ってきた.
手には,湯気のたつカップを持っている.
彼はにっこりとほほ笑んで,カップを差し出した.
「ありがとうございます.」
みゆが受け取ると,彼は隣に腰かける.
これまでのいきさつを教えるように促されたので,みゆは語り始めた.
カリヴァニア王国王都に到着したとたん,カイルによって地球へ帰されたこと.
みゆは日本から夢の世界へ逃げたが,翔は留まったこと.
水底の街で,リアンに会ったこと.
再会したウィルが,誰かの死体の前でむせび泣いていたこと.
百合の力で,大神殿まで連れられたこと.
話が進むにつれて,ルアンの目は険しくなった.
みゆの顔をまじまじと眺め,ありえないとつぶやく.
「ユリは距離も時間も越えて,君を呼び寄せたのか.いや,君が時間を飛んだのか.」
「時間?」
嫌な予感がする.
ここから先は,不都合な事実だ.
「今は神歴九百二十年だよ.」
異世界の年号は,みゆにはなじみが薄い.
もどかしくて,聞きなおした.
「君とウィルがこの国を発ってから,だいたい二年が過ぎた.」
耳を疑う.
神聖公国から出て行ったのは,ほんの半月前だ.
「本当ですか?」
ルアンはうなずいた.
「僕も信じられない.君は二年後の世界に来たんだ.」
今,みゆの前にいるのは,別れたときのままのルアン.
二年という時間は感じさせない.
「死者に会い,さらに時間も越える.君たち異世界の人間には,不可能はないのか.」
けれど百合は,子どもを産んだと言った.
聞き間違いだと思い無視したが,確かに言った.
それに彼女の髪.
髪が伸びて,黒い地毛に戻ったのだ!
「そんな!」
みゆは勢いよく立ち上がり,カップの中のお茶をこぼす.
「じゃぁ,ウィルは?」
ルアンがカップを取り上げるが,構わずに問うた.
森の中で,ひたすらに涙を流していた少年.
あれは,いつの出来事だ?
はやく,はやくウィルのもとへ帰らなければ.
二年間も,一人きりにしたなんて!
「カリヴァニア王国へ戻ります.」
早足で,部屋から出ようとする.
「待ちなさい!」
肩をつかまれて,止められた.
振り向くと,手を伸ばしているのは,ルアンではなく百合.
「ひっ,」
みゆは驚いて,悲鳴を上げた.
目をぎらぎらさせて,百合が眼光を飛ばす.
「私を日本へ帰して.」
彼女の隣で,ルアンが絶句している.
この部屋には,彼の結界があるのに.
「あなたのせいなのだから,あなたがどうにかしてよ.」
百合はみゆにすがりつき,泣き崩れた.
「私を助けて.」
先ほどは怒り暴力を振るおうとしたのに,今は幼い子どもみたいに泣いている.
突発的で目まぐるしい百合の言動に,みゆは対応しきれない.
「ユリ,落ちつきなさい.」
ルアンが彼女を引きはがした.
「子どもは産んだのだから,故郷へ帰して.」
「分かった,君を帰そう.」
ルアンは宣言した.
「僕はミユちゃんとカリヴァニア王国へ行く.そこでカイルと会い,君を故郷まで送ってもらおう.」
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