水底呼声 -suitei kosei-

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  10−1  

最初に聞こえたのは,泣き声だった.
幼い少女の声だ.
ついで,別れる瞬間の恋人の悲痛な顔が思い返される.
みゆは,薄暗い海中でまぶたを開いた.
頭からゆっくりと沈み続けている.
目を足もとにやると,水面には満月が揺れて映っている.
群青色の空に,雲は少ない.
視線を海底へ移すと,見慣れたビルの街並みだ.
予備校,スポーツジム,ファーストフード店に駅.
道路には,無人の乗用車やトラックがとまっていた.
このまま落ちていけば,歩道橋に降りる.
ここは,カリヴァニア王国でも日本でもない.
夢の世界と言うべきか.
みゆはひたすらうろたえて,日本から逃げ出したのだ.
翔には申し訳ないが,彼ならきっとうまくやってくれる.
「会いたい.」
水の流れにのって,言葉が届いた.
先刻から泣いている声だ.
「エリューゼに会いたい.」
少女は背中を向けて,歩道橋の階段に座っている.
白いワンピースを着て,髪は長い.
みゆも長い髪をしていたが,少女の方がずっと長く腰の下まである.
誰だろう.
平泳ぎで,きゃしゃな少女のもとへ泳いだ.
「ルアンに会いたい,カイルに会いたい.」
あっと小さく叫んで,少女の正体に気づいた.
鎖に通して首からかけている,赤い石のついた指輪をつまむ.
大神殿でルアンがくれた,ウィルの母親の遺品だ.
日本で予備校の講師に捕まったとき,これが光った.
ということは,この少女は,
「リアンさん?」
呼びかけると,少女はびくりと震えた.
「誰?」
泣き顔で振り返る.
ウィルやルアンと同じ黒の瞳.
くせのある黒髪が,ゆらりと流れる.
「私は古藤みゆです.」
少女の隣に腰かけて,みゆは名乗った.
少女の年のころは十五才程度,なくなったときの年齢だろう.
「あなたはリアンさんですよね,ルアンさんの双子の姉の.」
少女はとまどいながら,うなずく.
さすが親子,女装したウィルにそっくりだ.
リアンは,みゆがペンダントにしている指輪を不思議そうに見ている.
同じものが,少女の右手の薬指にもあった.
「これは,ルアンさんにもらったのです.」
首もとを指して説明する.
この少女は年下だが,みゆにとって義母にあたる存在なのでは?
そう考えると,妙な気分だ.
「私はあなたの息子の,……恋人です.」
多少気恥ずかしいが,笑みを浮かべる.
リアンは首をかしげた.
みゆは,少女が理解するのを待つ.
たっぷり十を数えた後で,少女は「えぇ!?」と声を上げた.
「息子? 恋人ぉ!?」
みゆを見て,なぜか真っ赤になって照れる.
「私の子は女の子じゃなかったの? こんなしっかりした大人の女性が恋人?」
子どもの性別を逆に思いこんでいたらしい.
さらに,自分より年上の女性が恋人なのだ.
頭の中は大混乱だろう.
みゆは,できるだけ柔らかく話し始めた.
「あなたの息子はウィルと名乗っていて,今は十六才です.」
ルアンが誕生日を教えてくれたので,正確な年齢である.
リアンは目をぱちぱちさせた.
「十六才.」
ぼう然とつぶやく.
「どんな男の子なの? 私やルアンに似ている?」
黒の瞳に切実な光が宿る.
「どんな顔を,声をしているの? どんな風に笑うの? 大神殿にいるのよね?」
子どものことを気にしない親はいない.
みゆは心が暖かくなった.
ウィルは,こんなにも愛されている.
「ウィルはカリヴァニア王国の王都に,」
「そんな!」
少女は立ち上がる.
「なんてこと…….」
ふっと気を失った.
「リアンさん!?」
みゆはあわてて,少女の体を支える.
ショックを受けることを言っただろうか?
ウィルの所在を告げただけ,
「あ,」
思い出した.
神聖公国の住民は,カリヴァニア王国を恐ろしい魔物たちの国だと勘違いしているのだ.
リアンが倒れるのは当然である.
「ごめんなさい.」
配慮が足りなくて.
とりあえず,少女の青白い顔に謝罪した.
そして体を,歩道橋の上で悪いが横たえる.
頭は,ひざの上にのせた.
寝顔は,やはりウィルに似ている.
今ごろ,少年はどうしているのか.
みゆを探しているにちがいない.
ふと思いついて立ち上がり,周囲を眺め渡した.
前回ここに来たときと同じく,ウィルが泳いでくることを期待して.
だが,そのような都合のいいことはなかった.
落胆して,リアンの隣に腰を降ろす.
カリヴァニア王国へ戻りたい.
今すぐ,ウィルのもとへ.
恐怖にも似た焦燥で,思う.
私の生きる世界は,ウィルのそばにしかないのに.
いや,ちがう.
私の生きたい世界は,ウィルのそばなのだから!
しばらくすると,再び泣き声が耳に入った.
「どうして私の子が,のろわれた王国に.」
横顔は,母親のものだった.
「ルアン,カイル,――なぜ? 何があったの?」
わが子の不遇を嘆いている.
「リアンさん,」
細い肩に,みゆはそっと触れた.
「ウィルの話を聞いてくれませんか? あまり愉快な話ではありませんが.」
それでも知ってほしい.
あなたは,ウィルの母親なのだから.
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