水底呼声 -suitei kosei-

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  9−12  

日本に帰った翔は,十二月二十四日にやっと自由を手に入れた.
一人で行動できる自由である.
今日はクリスマスイブなので外出させてほしいと,母に頼みこんだのだ.
イブだからというのは妙な理屈だが,彼女はそのように感じなかったらしい.
従って翔は,帰国後初めて,単身で家から出ることができた.
カリヴァニア王国から戻ってきて,二か月以上がたっている.
異世界で過ごした日々は,今では夢物語のようだった.
あのとき着ていた服は,――つまり唯一の物証は母に処分されたので,余計にそう思える.
翔は私鉄と地下鉄を乗りついで,みゆの家を訪ねるところだった.
遅くなってしまったが,彼女の家族に手紙を届けたい.
みゆが異世界で書いた手紙を.
翔は,一戸建てが立ち並ぶ住宅街へ入った.
住居は,彼女本人から聞いている.
洋風の二階建てが多く,街並みは比較的新しい.
クリスマスのライトアップをしている建物が,いくつかあった.
家々の表札を確かめていると,ジーンズのポケットに入れている携帯電話が鳴る.
取り出して見ると,母からのメールだ.
内容は,チキンやピザやケーキを買った,夫婦二人では食べきれない.
よって,帰ってきてほしい.
翔は,画面右上のデジタル時計に目をやった.
時刻は14:34,家を出てから二時間もたっていない.
日は高く,夕食の時間には早すぎる.
翔はメールの返事を打とうとして,やめた.
メール作成画面を消して,電話をかける.
案の定,すぐに応答があった.
「母さん,」
全身全霊をかけて,優しい声を出す.
「心配かけてごめん.」
異世界での日々は遠かったが,翔の心にしっかりと残っていた.
カリヴァニア王国や神聖公国で会った人々の言葉が.
「夕飯までには帰宅するから,安心して待っていてくれ.」
母はさめざめと泣き始める.
彼女はきっと,翔が失踪していた一か月間を泣き暮らしていた.
「ツリーを飾ったわ.お願い,帰ってきて.」
「大丈夫,用事が済んだら帰るよ.」
そう,翔は帰る.
自分を待つ家族のもとへ.
「チキンもピザもケーキも食べる.――そうだ! プレゼントを買って帰るよ.」
母は意表をつかれたように,しゃっくりを上げた.
クリスマスプレゼントなど,翔は買ったことがない.
けれど,今年は買おう.
母は喜んでくれるだろう.
父や,就職して家を出て行った二人の兄は嫌がるかもしれないが,強引に押しつければいい.
単なる思いつきだったが,なかなかにいいアイディアだ.
翔は泣き続ける母をなだめて,電話を切った.
神聖公国で知った,自分は今まで生きていなかったと.
だからこれからは,地球で生き直さなければならない.
家族を大切にし,友人を作り,夢や未来について考えたい.
翔は古藤と書かれた表札を見つけ,ポストに手紙を入れた.
本当はみゆの両親に会って渡したかったが,それは彼女に断られた.
私の両親は柏原君を責めるから,手紙はポストに入れてと.
責められてもいいと翔は主張したが,彼女は首を振った.
翔はきびすを返し,次は百合の家を目指す.
とは言っても,住所は知らない.
一度だけ聞いた,自宅近くの駅へ行くのみだ.
そもそも,家族に渡す手紙がない.
彼女は手紙が書ける状態ではなかった.
神聖公国でセシリアから聖女の説明を受けたとき,翔はうさんくさいと感じた.
一人で神の塔にこもって妊娠する話も,まゆつばものだった.
なので,百合が引き受けて驚いた.
彼女は大学受験から逃げるために,安易な気持ちで決めたのだ.
翔は,もっと強く彼女を止めるべきだった.
だが自分のことでいっぱいで,結局は説得しなかった.
それどころか,居場所を得た彼女をねたんだ.
いいよな,女は.
男をつかまえれば,子どもを作れば,後は何もしなくていいから.
恋人とともにいるみゆに対しても,そんな風に思った.
その結果が,百合の狂態である.
彼女は翔にすがりつき,助けてくれ,故郷へ帰りたいと泣いた.
赤子のいる腹をなぐろうとして,神官や巫女たちに止められていた.
今さら,どうすることもできない.
すでに手遅れだ.
あのとき,彼女を止めればよかったと後悔するしかない.
日本へ帰った翔は,刑事と名乗る男たちに何度も責められた.
みゆと百合は,どこにいる?
翔は答えられない.
ただ百合だけは戻ってくるかもしれないと教えると,さらに取り調べは厳しくなった.
刑事たちは,翔が彼女たちを殺害したとも疑っていた.
幸いに証拠も死体もないので,疑われるだけで済んでいるが.
翔たち三人が通っていた予備校でのうわさは,もっとひどい.
翔たちは肉体関係にあり,嫉妬に狂った百合がみゆを刺し殺したという.
ほかにも,心中しようとしたが翔だけが生き残っただの,女二人は風俗店に売られて翔だけが逃げただの,いろいろな憶測が流れている.
翔は予備校を退学したが,悪意のある言葉は携帯電話にたくさん送られてきた.
電話番号とメールアドレスを変えて,友人はほとんどいなくなった.
唐突に地球へ帰されたために,翔は荷物をほぼすべて異世界に置いてきた.
持って帰れたのは,携帯電話とみゆの手紙のみである.
大切なものなので,肌身離さずにポケットに入れていたのだ.
役に立たなくても携帯電話は,翔と故郷をつなぐ大切なものだった.
ところがみゆは,日本のものは全部捨てたと言った.
彼女はあの世界で,誰よりも大切な人を見つけたから.
たがいに深く想いあう存在を.
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