水底呼声 -suitei kosei-

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  9−11  

「やめろ!」
駆け寄る足がもつれる.
伸ばす手が届かない.
カイルはナイフを水平に引き,勝ち誇った笑みを浮かべた.
「師匠!」
真っ赤な血が,雨のように降り注ぐ.
手が赤に染まる.
伸ばした手の先,カイルの体が後方へ倒れる.
首から大量の血を吹き出して.
「あ,あ…….」
ウィルは立ちすくむ.
カイルの体は,二,三度けいれんすると動かなくなった.
彼の顔に苦しみはなく,すべての仕事をやりつくした安らかな表情をしている.
「うそだ.」
信じられない.
これは,いったい何だ?
唐突すぎて,理解できない.
神の信徒に戻ると,彼は言った.
カリヴァニア王国の暗号が解けたから.
つまり,カイルを死に追いやるほどの事実があったのか.
死に……,
「死なないで!」
突然,突き動かされた.
「死なないで,師匠.」
カイルの体を揺さぶる.
彼は,すでに死んでいる.
分かっている.
だが,なきがらにすがりついた.
「起きて,起きてよ.」
髪を振り乱し,浴びた血を飛び散らせて.
「こんなのやだよ!」
自分が冷静でないことが,頭の隅で感じられた.
けれど止められない.
なぜなら,受け入れられない.
カイルが死んだ?
そんなことはありえない.
彼は常に,ウィルの前に立ちはだかる壁であり続けるのに.
しかし彼の体は血にまみれて横たわり,ぴくりとも動かない.
少年の声にこたえず,瞳を開かない.
何をしても,起き上がってくれない.
彼は,死んだのだ.
死んでしまったのだ.
そう認識できたとたん,何かがぷつんと切れた.
叫びだす.
獣のように,言葉にならない.
思考がどろどろに溶けて,何も考えられない.
本能だけの存在になり下がり,のどをしめ上げてわめく.
そうして,天を振り仰いだ瞬間に知った.
愛していた.
錯乱しながら,少年は悟る.
育ての親であるカイルを愛していたと.
彼は一度も愛を返してくれなかったが,ウィルは愛していた.
ずっと,ものごころがつくころから.
彼が,父親だと思っていた.
唇がわななく.
体中が震えている.
目から,涙が流れている.
本当の気持ちが,真に欲していたものが分かった.
カイルに愛されたかった.
自分を見てほしかった.
手をつないでほしかった.
抱きしめてほしかった.
けれど,彼はいない.
死者はよみがえらない.
ウィルが泣いても,わめいても.
ひっくと息を吸いこんで,思い知る.
だから,人を殺してはいけないのだ.
ぼろぼろと涙がこぼれて,おのれの罪深さに胸がつぶれそうだ.
どれだけの人を手にかけた.
涙ながらの命ごいを,どれだけ踏みにじった.
もう,誰も殺せない.
みゆに請われるまでもなく,誰の命も奪えない.
国王に黒猫をやめると宣言したが,今,まさに少年は黒猫になれない存在だった.
感情があふれ出て,止まらない.
悲しみも寂しさも,絶望も後悔も,何もかもが強すぎて.
心が壊れそうだ.
泣いて泣いて,死んでしまう.
瞬間,カイルがウィルのそばで首を切った意図に気づく.
彼はすべてを承知の上で,やったのだ.
親として慕われていることを知っていた.
だから目の前で,少年の愛する人を消した.
最初はみゆを,次はカイルを.
ウィルに不幸を与えるために.
生きることの許されない,けがれた存在だから.
どれほどの憎しみが,カイルにあったのか.
それほどに,自分が生まれたことは罪深かったのか.
息が詰まるほどの血のにおい.
乾いてこびりつく赤褐色の液体.
カイルの死体に,虫たちがまとわりつく.
死体も死も,今のウィルにはなじみが薄い.
みゆと出会い,彼女に愛されて,それらは遠くなった.
甘く暖かいもので満たされていた.
だが.
本来いるべき場所は,カイルの望んだ生き方は,
――お前は呪われた存在だ.
遠い声にめまいがする.
世界が暗く閉ざされる,そのとき,
「ウィル.」
声がした.
少年を心配し,守ろうとする声が.
いつからなのか,暖かい腕が体を包んでいる.
ウィルは,彼女の名前を呼んだ.
誰よりも,愛しい恋人の名を.
が,声が出ない.
顔を上げると,長い黒髪の少女がいた.
瞳の色も黒く,ウィルと同じ年ごろだろう.
半透明の体が水面に映っているみたいに,ゆらゆらと揺れている.
少女は叫んで,泣きながら少年に抱きついた.
実体はない.
しかし,ぬくもりがあった.
必死に抱きしめて,何かを伝えている.
言葉が聞き取れない.
けれどカイルの死を悲しみ,ウィルをなぐさめていることは感じ取れた.
――エリューゼ.
ふいに耳に入った単語に,少年は目をみはる.
女性の名前だ.
聞いたことはないのに,なぜか懐かしい.
大きな光り輝くものが,少年の中によみがえる.
そして闇に沈んだ心を,生者の世界へ押し上げた.
そうだ,古藤みゆだ.
その名を持つ女性を,ずっと探していた.
ふと気づくと,黒髪の少女は消えかけている.
もうほとんど色のない姿で,ウィルを見つめて優しくほほ笑んでいる.
――君は誰?
たずねようとしたが,のどからは音のない息ばかりが出た.
少女は何かをしゃべってから,大気に溶ける.
声は届かなかったが,唇は読み取れた.
――愛しているわ,ウィル.
柔らかな風が吹いて,少年は少女の正体を知った.
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