水底呼声 -suitei kosei-

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  9−10  

弓を引きしぼる.
ぎりぎりまで引っぱってから,矢を放った.
矢は一直線に空を走り,壁にぶつかってぽとりと落ちる.
壁,――神聖公国の結界である.
ウィルは,世界の果ての森にいた.
神聖公国へ戻るために,洞くつの結界をやぶろうとしているのだが,どうしてもうまくいかない.
ナイフも剣も,おのもやりも,魔法で燃やしても凍らせても駄目だった.
結界は壊せない,揺らすことすら不可能だ.
いや,多少は干渉できているのかもしれないが,ウィルが洞くつに入れない以上,意味がない.
少年は,第二射を放つ.
一射目と同じ場所に当てたが,結界は動かなかった.
ウィルは王城で,異世界の人間を呼び寄せる魔法を作ろうとした.
だが,どれだけ本を読み返してもできない.
少年は過去に,多くの魔法をカイルから習った.
なので,ほぼすべての知識を譲り受けたと思っていた.
しかし,それは間違いだった.
カイルはおそらく,殺人に利用できるものだけを与えたのだろう.
なぜなら,神聖公国には知らない魔法がたくさんあった.
ルアンもサイザーも,多彩な技を操った.
奇跡の力に関して,少年は自覚していた以上に無知だった.
よってウィルに,魔法の開発はできない.
ならば,自分よりも学のある人を頼るべきだと考えた.
大神殿にいる父ならば,新しい術を生み出すことができる.
いや,知識さえ伝授してくれれば,少年自身がやる.
けれど…….
少年は第三射を構え,矢を放つことなくあきらめた.
息が落ちる,肩も落ちる.
神聖公国へは行けない.
結界を通り抜けられるのは,異世界の人間のみだ.
みゆを探すために洞くつをくぐりたいのに,それができるのは彼女だけ.
少年は弓矢を捨てて,その場にしゃがみこむ.
みゆが少年の前から消えて,二か月がたっていた.
その間,ウィルはいろいろなことを試みた.
無駄だと分かりながらカイルに頭を下げたり,ない知恵をしぼって交渉したり,ドナートと二人がかりで説得したり.
心底嫌だったがライクシードに相談したり,けむたがられたが暗号の本を解読する人たちに協力したり,みゆと親しかったメイドのツィムに助言を求めたり.
なのに,彼女は帰らない.
かけらすら,つかめない.
次は何をすればいい,何を試せばいい?
もう,思い浮かばない.
考えついたことは,すべてやった.
少年はぼんやりと,ほら穴を眺める.
この場所は嫌いだ.
この場所で,みゆは少年を残して神聖公国へ旅立った.
あのときは悲しかった.
涙がいっぱい出て,止まらなかった.
神聖公国からカリヴァニア王国へ帰ったときも,みゆは少年を置いていこうとした.
荷物を積んだロバを受け取りに行くと言って,あっさりと背中を向けた.
不安だった.
みゆが手の届かないところへ行くのは,純粋に恐怖だった.
けれど彼女は,すぐに戻ってきた.
軽く息を弾ませて,ごめんねと笑った.
今の少年の気持ちは,悲しいでも不安でもない.
心にぽっかりと,穴が開いている.
そしてそこに,風が吹いている.
寒かった.
みゆがいないという事実に突き当たるたびに,少年は凍えた.
孤独を,寂しいという気持ちを感じていた.
もしもこのまま,彼女が帰らなければ…….
想像の入り口に立っただけで,ぞっとした.
もう何も見たくない,聞きたくない.
彼女に関係するもの以外は!
しかし少年の耳は意思に反して,物音を捕らえる.
誰かが草を踏む音だ.
覚えのある気配が近づいてくる.
少年は,顔を上げた.
「師匠.」
目の前には,育ての親のカイルが立っている.
意外な人物の登場に,少年は驚いた.
彼は,座りこんでいる少年を見下ろしている.
いつもどおりの,冷たいまなざしで.
「ウィル.」
重々しく,口を開いた.
「王国について書かれた本の暗号が,完全に解けた.」
少年の頭に,今まで消えていた光がともる.
そうだ.
みゆの望みをかなえたい.
カリヴァニア王国を守るために,呪いを解除したい.
少年は,ふらりと立ち上がった.
城へ戻ろう.
解読された暗号の中身を知りたい.
だがカイルが,進路をはばむ.
「なぜ私が,ドナートに忠誠を誓っていたか知っているか?」
誓っていた,過去形だ.
しかも陛下と呼ばずに,呼び捨てにした.
かつてなかったことに,少年はとまどう.
カイルは,薄く笑った.
「神官だった私が,なぜ異国の王に頭を下げたのか.」
改めて考えると,不思議だった.
カイルには,ドナートに従う義務はない.
カイルとウィルは神聖公国からの来訪者であって,カリヴァニア王国の国民ではない.
少年がほんの小さいころからカイルは国王に従っていたので,疑問に思っていなかったが.
「なんで?」
素直にたずねた.
「神を見失っていたからだ.」
彼は,するりと答える.
ウィルの当惑は,大きくなった.
「神が,聖女が,分からなくなっていた.」
変だ.
こんなおしゃべりなカイルは,初めて見る.
「何を信じればいいのか,誰に従えばいいのか.私は,くらやみの中にいた.」
何かが切れたように,彼は告白し続ける.
「だから,たまたまそばにいた国王に従った.彼は私にとって,神の代替物だった.」
「師匠…….」
止めなければ,彼を止めなければならない.
えも言われぬ,悪い予感がする.
「だが,それも終わる.私は神の信徒に戻る.」
神官であるカイルは,少年の知らない男だ.
ルアンから昔話を聞いたが,いまだに信じられない.
「神の意志に沿うために,いけにえをささげる.」
いつの間にか,彼の手にはナイフがあった.
「本当は,お前を道連れにした方がいいのだが,」
少年の背に,ぞわっと悪寒が走る.
「お前は簡単には殺せないだろう.」
カイルはナイフを,みずからの首に押し当てた!
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