水底呼声 -suitei kosei-

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  9−9  

自室へ戻ると,黒の少年は服を脱いで,足の包帯を巻き直した.
医者の助けはもう必要ないが,けがはまだ完治していない.
今のウィルではラスたちを撃退するのに手間取り,足のけがも悪化させたにちがいない.
ラスはウィルが傷を負ったときからずっと,襲撃の機会をうかがっていた.
今なら,かたきを討てると考えたのだろう.
仲間,――と言っても戦力外だったが,まで連れてきた.
しかしラスにもウィルにも予想外だったのが,ライクシードの存在である.
彼はなぜか,護衛を申し出た.
ウィルが多少動けるようになり,医者やメイドたちの手を拒絶して,自室にこもった後もついてきた.
その上,しばらく無人だったために汚くなった部屋の掃除までした.
ウィルは,王子の行動にあきれた.
だが,ありがたく利用させてもらった.
ラスが復讐をあきらめるとは思わないが,これで当分は攻撃してこないだろう.
ウィルは,部屋の隅にあるソファーを見た.
横長のソファーの上には,クッションや毛布が置かれている.
これらは,部屋で寝泊りするために,ライクシードが持ちこんだものだ.
特に小さなソファーではないが,彼は背が高いので窮屈そうだった.
少年は視線を,自分の手に移す.
小さな手,細い手首,腕だって細い.
ライクシードの手は大きく,腕は太い.
きたえられた体には,しっかりと筋肉がついていた.
もやもやした気持ちがわいてくる.
けれどウィルは,その感情を押しつぶした.
このような気持ちなど,みゆがそばにいて少年だけを見つめてくれれば,簡単に消える.
彼女の帰還を国王に頼んだが,予想どおり無駄だった.
カイルは,けっしてウィルの希望をかなえない.
少年自身がカイルに頭を下げても,同じだろう.
ならば無理やりに,言うことを聞かせてはどうだ?
鋭いナイフをのどに当て,カイルを脅迫するのだ.
魔法の力のみなら,今ではウィルの方が上だ.
うまくやれば,勝てる.
しかし負けた彼は,どうするのか?
――殺せ.いつかこんな日が来ると思っていた.
彼のあきらめた声,安らいだ瞳が想像できて,少年はぞっとした.
カイルに脅しはきかない.
彼はちゅうちょなく死を選ぶ,少年を幸福にするぐらいなら.
ならば,過去にカイルが開発した異世界の人間を呼び寄せる魔法を,自分で作るしかない.
もしくは異世界へ行く魔法か.
どんな魔法でもいいから,みゆとともにいられる魔法を.
服を着た少年は,ベッド脇から本棚へ移動した.
カイルに教わった魔法は全部,本に書き留めている.
伝えられた術は多く,覚えきれるものではなかったからだ.
本の背表紙には,いつごろ習ったものか記してある.
ぎっしりと詰まった本棚から,一番日付の古いものを取り出す.
本を開くと,文字は下手で読みづらい.
これを書いたのは,八年前だ.
だが読み返して,カイルに教授されたすべてを思い出さなくては.
おのれの知識を総動員して,新しい魔法を編み出す.
今まで魔法を作ったことも,作ろうとしたこともないが,みゆのためならできる.
とにかく,やるんだ.

ウィルと別れたライクシードは,王城のある一室へ向かった.
入れる者は限られている,秘密の部屋だ.
扉を開くと,部屋の中央には長方形の大きなテーブルがある.
テーブルの上には大量の本.
神聖公国から,ウィルたちが持ち帰ったものだ.
どうやって,大神殿の本を手に入れたのか.
ライクシードは一冊を,こっそりと盗んだだけだ.
ウィルは多分,すべての本を堂々と譲り受けたのだろう.
みゆのことはもちろん,暗号の本さえもウィルはライクシードの上に立つ.
みゆはカイルによって異世界に送り帰されたと,ウィルは話した.
けれどきっと,少年は彼女を取り戻す.
ライクシードが何もできないうちに.
「こんにちは.」
ライクシードは,部屋にいるシャーリーとゾイドに声をかけた.
ゾイドは,ドナートの側近である.
年は,ライクシードの父親ぐらいか.
頭の髪は薄いが,まゆ毛が太くて特徴的だ.
彼はテーブルから目を上げると,あいさつを返した.
再び視線を落として,書きものを再開する.
シャーリーはいすから立ち上がり,複雑な顔をして近づいてきた.
「黒猫はいいのですか?」
「はい.」
ライクシードは,あいまいにほほ笑む.
ウィルが刺された日から,シャーリーとは距離を置いていた.
彼のウィルに対する酷薄な態度が,受け入れられなかったのだ.
「神聖公国で,ウィルと親しかったのですか?」
「そういうわけでは,」
言葉をにごしてから,話題を変える.
「暗号の解読は進みましたか?」
「えぇ,まぁ,――王国の場所が判明しましたよ.」
シャーリーはテーブルの上に,世界地図を広げた.
これは,ライクシードが故郷から持ってきたものだ.
地図を見せたときの,国王たちの驚きようを今も覚えている.
これが王国の外かと,地図に触れるドナートの手が震えていた.
先に王国に来たカイルは,地図を持っていなかったらしい.
なので彼らは初めて,自分たちの住む大陸の全体図を目にしたのだ.
シャーリーは,大陸の東側にある水の国の,北東部に位置する湖を指さした.
湖はゆがんだ形をして,一本の大河がうねりながら海まで流れている.
「この湖にせり出している半島が,カリヴァニア王国です.」
半島は南に伸びて,北は山脈でふさがれている.
すなわち王国は,水の国の領土内にある.
ライクシードは,翔と百合の持ってきた親書を読んだときの,兄のせりふを思い返した.
「水難? ……水の国のようだ.」
頭を抱えて考えながら,バウスはつぶやいた.
「私たちが海だと思っていたものは,湖だったのです.」
シャーリーの笑みは苦い.
海と呼ばれるものを,内陸部の神聖公国で生まれ育ったライクシードは見たことがない.
そしてシャーリーたちも,同様だったのだ.
「こんなせまい土地に,私たちは閉じこめられているのですね.」
彼はため息を落とす.
せまい国土に閉じこめられて,さらに四年後には国土全域が湖に沈む.
国民皆が死ぬのだ.
大人も子どもも,女も男も,善人も悪人も関係なく.
なぜカリヴァニア王国は,ここまで呪われなくてはならないのか.
呪いのきっかけは何だったのか.
「あなたたちの祖先は,どのような罪を犯したのですか?」
四百九十六年前に,カリヴァニア王国国民の祖先たちは罪を犯して,神聖公国から追い出された.
「分かりません,もっと暗号を読み進めないことには.」
瞳の中に地図を映して,シャーリーは答えた.
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