水底呼声 -suitei kosei-

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  9−3  

黒衣を着て,黒いマントをはおった初老の男だ.
髪には白いものが目立ち,顔にはシワが多い.
だが体からは,老いは感じられない.
ぜい肉のない,引きしまった体をしている.
みゆは彼と,二回だけ会ったことがある.
この世界に連れてこられたときと,その翌日ウィルとともに朝食をとっていたとき.
ほとんど会話はしていない.
けれど彼の話は,よく聞いている.
ウィルから,スミから,そしてルアンから.
大神殿の神官で,聖女の養育係だった男.
カリヴァニア王国でのウィルの養い親で,殺人術の師匠.
世界の果てでの戦いで,ウィルとスミを殺そうとした人.
「カイル師匠.」
構えたそぶりを見せずに,少年が呼びかける.
「ウィル,陛下から話を聞いた.」
彼の顔は,何も感情を映していない.
表情がない.
いや,そもそも彼には心が存在しないかのようだ.
「父親に会ったのか?」
能面のようなカイルの顔に,みゆはぞくりとして一歩下がる.
逆にウィルは,進み出た.
「うん.大神殿でお父さんに会ったよ.」
少年の動きはゆったりとしているが,黒服の下の筋肉が躍動している.
いつでもカイルに飛びかかれるように,いつでもカイルから逃げられるように.
「僕たちは“裏切り者”じゃない.暗号の本を持ち帰ってきた.」
初めて,少年の声が緊張を帯びた.
「あぁ,お前を処分するなと陛下に命令されている.」
カイルの声音が低く,冷たくなる.
「お前たちは救国の英雄だ.暗号は解読できる可能性が高い.」
前にウィルが言ったとおりに,国王がみゆたちの保護を命じたのだろう.
だからカイルは,手出しできない.
安心していいはずだ.
だが頭の中で,警報音が鳴り響いている.
彼から,危険の香りを消すことができない.
視線が,ウィルではなくみゆに注がれているように思える.
怖い…….
さらに一歩下がろうとした,そのとき.
カイルの背後,建物の奥からこちらに近づいてくる青年がいる.
ライクシードだ.
くすんだ金髪の見知らぬ男とともにやってくる.
ウィルも気づいて,目をそちらにやる.
瞬間,嫌な予感がどんと大きくなった.
みゆは,何かの力によって,前から体を押される.
後方へゆっくりと倒れる.
「ミユちゃ,」
驚いて振り返る,少年の顔.
少年の手が伸びる,みゆも手を伸ばす.
でも届かない.
一瞬で遠くなる.
声が出ない.
あまりにも,あっけなくて.
みゆは,どすんとしりもちをついた.
とたんに,街のざわめきや車の走る音が耳に入る.
ひときわ高いクラクションの音に,みゆは反射的に顔を上げた.
すぐそばで,翔がぼう然とつったっている.
みゆと彼は,見慣れた景色の中にいた.
さびた鉄の歩道橋の上に,二人でいる.
周囲を,無関心に行き過ぎる人々.
イヤフォンで音楽を聴きながら,友人同士連れ立ってしゃべりながら.
ぐるりと遠くを見渡せば,高いビルの街なみ.
大きな看板のついた予備校のビルもある.
歩道橋の下を走る,片側三車線の幹線道路.
車の排気ガスのにおい,にごった色の空.
冷たい風に,みゆはぶるりと震える.
ここは,日本だ.
当たり前の事実に,ぞっとした.
街を歩く人々は,長そでの服を着こんでいる.
ひざしは柔らかく,みゆたちのような薄手の服では肌寒い.
すでに季節は秋なのだ.
みゆが召喚された夏から秋へ,世界は簡単に移り変わった.
ずっとそばにいる,けっして離れないと誓ったのに.
座りこんだまま,みゆは声もなく,故郷の街を眺めた.
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