水底呼声 -suitei kosei-

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  9−4  

「ミユちゃ,」
気づいたときには遅かった.
みゆの体は,後方へ倒れていく.
もうほとんど消えかかっていた.
あわてて手を伸ばしたが,むなしく空を切る.
みゆは,少しだけ驚いた表情で消えた.
翔とともに,ウィルのそばからいなくなった.
完全に,においすら残さず.
簡単すぎるほど簡単に,この世界から追い出された.
ロバを引いている部下の男は,事態がつかめずに,ぽかんとしている.
こちらを遠巻きに眺めている門番の兵士たちも,同じだ.
馬のサウザーランドが,にわかに騒ぎだす.
たづなを持っていた翔がいなくなったので,勝手に走り出した.
「サウザーランド!?」
目を丸くするライクシードのもとへ.
少年は構わず,カイルに向き直った.
「なぜ?」
声がかすれている.
心臓が痛いくらいに速く,胸をたたく.
「分からないのか,ウィル?」
いわおのように固いカイルの顔.
少年が何を言っても,何をしても揺るがない.
昔から一度だって,彼がウィルの願いを聞き入れたことはない.
「お前の呪われた出生を,故郷で知ったのだろう?」
神聖公国で,自分の生まれた経緯を知った.
今まで知っていたものすべてが少年を裏切り,足もとがぐらつくような思いに襲われた.
けれどみゆが,少年を支えた.
ウィルはウィルだよと言った.
どのような生まれであっても,どのように呼ばれても,少年は少年自身でしかありえない.
――君は君自身が,リアンの忘れ形見だ.
ふいに,ルアンの言葉がよみがえる.
彼のまなざしが,少年に伝えた.
ウィルは,ルアンとリアンが愛しあった結果,望まれて生まれた子どもだと.
手放したのは,けっして本意ではなかったと.
じわりと,スミの体温がよみがえる.
別れたからこそ,分かる.
スミはずっとウィルの隣に,当たり前のようにいた.
カリヴァニア王国でも神聖公国へ行っても,それは変わらなかった.
愛することを教えてくれたのは,娼婦のエーヌ.
命を救ってくれて,ありがとうと感謝してくれたのは,大神殿の下働きの男たち.
突然やってきたウィルたちを,家に入れてくれたのは,カーツ村の村長たち.
いつも笑顔で優しく接してくれたのは,図書館館長のナールデン.
今まで出会った人たちの顔が,次から次へとよみがえる.
そして,愛する人は一人だけ.
みゆの与えてくれたぬくもりが,手に取れるほど鮮やかによみがえる.
愛していると言ってくれた.
心も体も与えてくれた.
故郷へ帰らないと言ってくれた.
その重みが,スミと別れたウィルには分かる.
彼女が,何を犠牲にしたのか.
それらを捨ててウィルを選んでくれたことが,どれだけありがたいことなのか.
唐突に,少年は理解する.
自分は呪われていない.
体が打ち震えるほどに強く,確信する.
呪われてなど,いない.
今,初めて全身に生きた血が行き渡る.
世界が開け,すべての可能性が少年の前に提示される.
カイルの言葉は,ものごころがつくころから聞かされてきた言葉は,――いつわりだ.
「僕は呪われていない.」
声が出る.
力もわき出してくる.
「生きる許しを得ている.」
カイルの顔がゆがむ.
最初は驚きに,次は怒りに.
「幸せになってもいい.」
その娘を大切にして,幸せになりなさい.
エーヌの告げた言葉の意味が今,はっきりと分かった.
みゆが,必要なのだ.
ウィルが幸せになるためには.
「だからミユちゃんを返して!」
瞬間,爆発する!
怒りそのものが少年に襲いかかり,ものすごい力で押し倒す.
「カイル師匠!?」
反撃も防御も,ままならない.
左のふとももに,鋭い痛みが走る.
悲鳴すら上げられない,のどをしめ上げられる.
視界を覆うのは,カイルの顔.
少年を殺そうとした老女サイザーと,同じ顔をしている.
悲しみと憎しみで,ぐちゃぐちゃになった顔.
「やめてください!」
割って入った声は,ライクシード.
剣げきの音とともに,ウィルは解放される.
ひぃひぃと息を吸いこみながら体を起こして,ライクシードと切り結ぶカイルの背中を見る.
「ウィルを殺すつもりですか!?」
「あなたには関係のないことだ!」
少年は立ちあがろうとしたが,左足から崩れ落ちる.
あまりの痛みに絶叫しそうだ.
深い傷口から,血が流れる.
はいつくばって,顔を上げた.
少年の血がついたナイフを振りかざし,カイルは異国の王子と戦っている.
振り返り,ウィルの様子を確かめることはない.
「師匠…….」
僕を見て.
あなたが育てた,この僕を.
「カイル師匠!」
「やめろ!」
どなり声が重なる.
少年はその声を,懐かしいと感じた.
絹の服を着た,やせた中年の男が立っている.
少年の記憶の中よりも,やせたのではないだろうか.
顔には深いしわが刻まれて,つらそうな目をしている.
国王ドナート,ウィルの主君である.
「剣を引け,カイル!」
彼は青い顔をして,しかりとばした.
カイルは止まる.
静かに,ナイフを下ろした.
国王の表情はゆっくりと,悲しみに落ちていく.
「どうしてお前の養い子を愛してやらない?」
カイルは答えない.
マントをひるがえして,城の中へ戻った.
「ウィル!」
ライクシードが少年のもとへ駆け寄る.
すでに体から,大量の血液が失われている.
ウィルの視界は暗くなり,やみに沈んでいった.
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