水底呼声 -suitei kosei-

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  9−1  

ほの明るい洞くつを,みゆとウィルと翔は,ロバを一頭ずつ引いて歩いた.
この洞くつは長くない.
すぐに,カリヴァニア王国側の出口が見えてきた.
そこには,二人の中年男性がいる.
男たちはみゆたちに気づくと,驚いた様子で立ち上がった.
たがいに二,三言葉を交わして,緊張した面持ちで待つ.
ウィルは彼らと顔見知りらしく,
「あれ? こんなところにいるなんて.」
と,意外そうにつぶやいた.
「誰なの?」
本や旅の荷物をのせたロバを引きながら,みゆはたずねる.
「僕の部下だよ.」
少年はあっさりと答えた.
「部下?」
みゆは思わず聞き返す.
男たちは見た目から,四十代か五十代程度だと推察される.
ウィルの父親であるルアンより年上だろう,なのに部下らしい.
「ウィル様,」
洞くつから出ると,男たちがおびえつつ声をかけてきた.
「私たちはカイル様のご命令で,ここに待機しておりました.」
「うん.」
少年は手短に,暗号本を手に入れたこと,国王に会いたいこと,カイルには内密にしてほしいことを告げた.
「分かりました.」
男たちは従順にうなずく.
ウィルに忠誠を誓っているというより,恐怖で従っている印象を受けた.
「ウィル様,うかがってもよろしいでしょうか?」
背の高い方の男が問いかける.
「何?」
「スミはどうしたのですか?」
少しの間があったが,少年は寂しそうなそぶりを見せなかった.
「スミは神聖公国に残った.二度と帰ってこないよ.」
「承知しました.陛下に伝えておきます.」
みゆは,男たちに話しかけてみる.
「あの,ライクシード殿下はこの国に来ましたか?」
彼らは,カリヴァニア王国について記述された暗号本の存在に,さほど感銘を受けなかった.
おそらくライクシードから聞いていたのだろう.
百合の不在を確かめないわけも,きっとそうだ.
「はい.彼は今,王城に滞在しています.」
「暗号の本を持っていましたか?」
「一冊だけ所持しておりました.」
男たちはなぜか,みゆにも敬語を使う.
「すでに解読が始まっているのですか?」
彼らの目に,おびえがあった.
みゆの背後に,上司のウィルを見ているのだろう.
「シャーリー殿下が中心となって進めています.」
シャーリー殿下とは誰だろう?
みゆは,隣に立つ少年に視線でたずねた.
「ドナート国王陛下のおいだよ.あまり城には来ない人だったけれど.」
数えるほどにしか会ったことはないと話す.
「私が滞在していたときも,城にはいなかったの?」
少年は首を縦に振った.
「ショウ.使者としての務め,ご苦労だった.」
男たちは,翔に対しては敬語ではなかった.
「地球へ帰してくれ.」
翔は,ぶぜんとする.
「もちろんだ.」
男たちが洞くつの近くにいたのは,翔の帰りを迎えるためだったのだろう.
彼らは少し相談した後で,ウィルに向かって言った.
「私は先に城へ戻り,国王陛下にことの次第を伝えます.」
「うん,よろしく.」
背の低い方の男は,小さな荷物を背負いすぐに出発した.
もう一方の男は残り,みゆたちに同行するらしい.
荷物,――暗号の本が多いために,ありがたいことだった.
「残りのロバを受け取りに行こうか,柏原君.」
みゆは翔を促して,洞くつへ入ろうとした.
ウィルが,あわてて呼び戻す.
「何?」
どうしたの? と言葉にならない.
あっという間に抱きしめられて,唇を奪われた.
「ちゃんと戻ってきてね.」
少年は不安げな表情で,念を押す.
「うん.」
びっくりした,翔も部下の男も驚いている.
「行くね.」
人前でキスされたことが恥ずかしくて,みゆはそそくさと洞くつへ入った.
翔が小走りで,追いかけてくる.
人の目がある場所で,ウィルがこのようなことをするのは珍しい.
少年はみゆが嫌がることを分かっているので,やらないのだ.
いつもは,そういうところは強引ではないのに.
「俺,けん制されたのかなぁ.」
翔がひとりごちた.
「けん制?」
「いや,だから,……俺の女に手を出すな,みたいな.」
顔を赤くして,説明する.
「洞くつを行き来できるのは,俺と古藤さんだけだし.」
「そう,……なのかな?」
みゆも恥ずかしい.
ウィルは独占欲が強く嫉妬深いと,スミから言われたことがある.
けれど,こんな風に見せつけなくても.
しかも,たかが洞くつを往復するだけの,短い時間に二人きりになるだけなのに.
「あ,ちがうと思う.」
みゆは前回,この洞くつをくぐって神聖公国へ行ったときのことを思い出した.
ウィルを置いて,みゆは一人で旅立ったのだ.
そのときの情景が,少年の脳裏にはよみがえったのだろう.
そして不安になったにちがいない.
すぐに荷物の運搬を済ませて,ウィルのもとへ戻ろう.
みゆの足は,自然に速くなる.
翔も無言でついていった.

神聖公国,大神殿の中は重苦しい雰囲気に包まれていた.
誰も彼もがこそこそと話し合い,暗い顔をつきあわせている.
「このままでは流産の可能性も…….」
「どうにかして落ちついていただかないと…….」
こうなることが分かっていたなら,百合を聖女にしなかった.
城の反対など無視して,みゆを神の塔へ入れておけばよかった.
彼女が呪われた黒猫にさらわれる前に.
サイザーは火事のときに倒れて以来,ベッドで寝たきりの状態だ.
体よりも,心が疲れたのだろう.
老いた聖女は,生きる気力をなくしてしまった.
死んだ娘の名前をつぶやいて,彼女のもとへ旅立つことを望んでいる.
みずからの命を絶ったマール,神の前に男を知ったリアン,にせものの聖女にしかなれなかったセシリア,わが子の死を願う百合.
人々に光を与えるはずの聖女が,大神殿に暗い影を落としている.

ルアンは沈んだ気持ちで,百合の寝顔を眺めていた.
彼女がひどく暴れるので,奇跡の力を行使して強制的に寝かしつけたのだ.
百合と生まれてくる子どもに,聖女の技を伝授するのがルアンの仕事である.
しかしこれでは,祈りの言葉を教えるどころではない.
――怖い,怖い.
百合は恐れていた.
自分の腹の中にいる子どもを.
神の塔とは,いったい何だろう.
ルアンの母であるマールは,幼いころから塔を恐れていた.
百合のように暴れたという話は聞かないが,妊娠中はずっと泣き暮らしていたらしい.
そして出産後は,双子として生まれたルアンとリアンにおびえた.
従ってルアンたちは,ほとんど母に会ったことはない.
母の思いを受けついだのか,リアンも塔におびえていた.
――怖いの,ルアン.あの塔に一人で入るのが…….
震える姉を抱きしめて,ルアンは何度も彼女と夜を過ごした.
ルアンが神の塔に対する疑問を口にするといつも,カイルが悲しそうな目をしてさとした.
――神を疑ってはなりません.あなたは黒猫とはいえ,聖女の端に連なる者なのですから.
彼ほどに,神を妄信していた神官はいない.
カイルは神を敬い,神の娘である聖女を敬っていた.
だからリアンの妊娠に,心が引きさかれたのだろう.
彼の信じる神と聖女が対立したのだから.
結局,カイルは神よりも,ルアンとリアンを選んだ.
息子のウィルを助けてくれた.
だがウィルの生存は許すことができても,それ以上は無理だったのだろう.
いや,いまだに彼の心中では,罪の子どもを殺すべきか否か,せめぎあっているのかもしれない.
みゆからカリヴァニア王国での話を聞いて,ルアンはそう考えている.
「カイル.」
名前を声に出すと,懐かしさがこみ上げる.
母のマールに代わって,ルアンたちを愛し育ててくれたのはカイルだ.
――あなた方は神の子ども.天上の光を地上にもたらすラートの末えいなのです.
ひとつだけ,ルアンが確信していることがあった.
カイルはきっと,神への信仰を捨てきれていない.
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