水底呼声 -suitei kosei-

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  8−11  

翌日,カリヴァニア王国への帰還の日はよく晴れた.
禁足の森の中は木漏れ日が差しこみ,明るく暖かだった.
このような朝日の下では,洞くつの左右にある魔物の石像も愛嬌がある.
さらに見送りに来たバウスとセシリア,二人を警護する親衛隊の騎士たちで,あたりはにぎやかだった.
初めてこの森に足を踏み入れたときは,夕暮れだったせいか,森は暗く静かに感じられた.
しかし今は,ピクニックでもしたくなる陽気である.
バウスはみゆたちのために,七頭のロバを用意してくれた.
一頭のロバに,暗号の本を三十五冊ずつ積んでいるのだ.
みゆと翔がロバを一頭ずつ引いて洞くつ内を何往復かすれば,暗号本は王国側へ運び出せる.
「荷車の方が一度に運べて,便利なのだがな.」
王子は,かすかに苦笑した.
森の中なので,ロバに荷車を引かせるのは無理がある.
みゆは,ロバに混じって一頭だけ馬がいることに気づいた.
七頭のロバではなく,一頭の馬と六頭のロバだ.
しかも,相当毛並みがいい.
テレビの競馬中継に出てくるサラブレッドのように美しい馬だった.
「殿下,あの馬は?」
あんなきれいな馬を,もらっていいのだろうか?
「あぁ,あいつはサウザーランドだ.気性の優しい賢い馬だから大切にしてほしい.」
「カリヴァニア王国へ連れて帰ってもいいのですか?」
バウスは,にっこりと笑った.
「もちろんだ.できるだけ手放さないでくれ.」
みゆには知りようのないことだったが,サウザーランドはライクシードの馬である.
馬を王国へ送ることは,身ひとつで故郷を出て行った弟に対するバウスの親心だった.
少し離れた場所では,翔が老若男女合わせて十人ほどの集団に囲まれている.
下はよちよち歩きの女の子から,上は白髪のおじいさんまで.
彼らが,昨日の話にあった城の馬場で働いている家族だろう.
小学生くらいの子どもたちが,帰らないでと大声で泣いていた.
するとみゆの思考は,百合の方へいってしまう.
彼女がどれだけ望んでも,子どもの堕胎には協力できない.
そして妊婦である百合を大神殿から連れ出し,安全に旅をして日本へ帰すことも難しいだろう.
それこそ,途中で流産するのかもしれない.
ならばバウスの言ったとおりに,神聖公国で子どもを出産してから,故郷へ帰るべきだ.
母親に置いていかれる子どものことを思えば,胸は痛むが.
いや,産んだ後に子どもを捨てる方が,罪深いのかもしれない.
どう考えても一番いいのは,百合がみずからの意思で子どもを産み育てることだった.
そうなればいい.
それを願うことしかできない.
「ミユさん.」
もの思いに沈んでいると,スミが声をかけてきた.
一人だけ背が低いのだが,――年齢も一番下らしい,だいぶ親衛隊になじんでいる.
同じ制服を着た男性たちと,さっきまで楽しそうに話していた.
「今まで,ありがとうございました.」
柔らかくほほ笑んでいる.
すっかりと見慣れた,若草色の髪と優しい目.
この少年とは,二度と会うことがない.
みゆはぎゅっと,自分より少しだけ小さい体を抱きしめた.
「それはこっちのせりふよ.今までありがとう.」
スミと別れることは,予想していなかった.
ずっと一緒にいるものだと思っていた.
けれど,
「神聖公国でも,がんばってね.」
「ミユさんも.……俺,いつまでもあなたを応援しますから.」
強く抱き返してくる.
なのに,
「ウィル先輩に殺されそうです.」
情けない声を出したので,みゆはくすくすと笑った.
スミと初めて会ったのは,カリヴァニア王国の王城だった.
夜,一人でウィルの部屋を探していると,少年はどこからともなく現れた.
――どこへ行くのですか?
こげ茶色の瞳は,悲しげだった.
城の者たちは皆,恋人と別れるみゆに同情してくれていた.
よってみゆは,スミも同じように同情しているのだと思った.
それよりも深い哀れみを寄せられていることには気づかなかった.
みゆは,いけにえだった.
スミは,それを知っていた.
みゆは少年に,ウィルの部屋を聞いた.
しかし案内は期待していなかった.
黒猫に関することはタブー.
知っていても,教えてはいけない.
だが少年は「ついて来てください.」と言い,ウィルの部屋の近くまで行くと,すぅっと消えた.
夜に出会った,不思議な雰囲気の男の子.
だからカリヴァニア王国北端のカーツ村で,再会したときは驚いた.
みゆはなかば本気で,スミを幽霊みたいな存在だと信じこんでいたからだ.
少年は大切な仲間で,友人で,家族だった.
ウィルとスミとみゆで,ともに食事を取り,笑いあい,語りあった.
子どもばかりだったが,古い隠れ家の中で一緒に暮らした.
みゆとウィルだけだったならば,どこかでつまずいて,ここまで来られなかった.
バウスの協力を得て暗号の本を運ぶなど,夢のまた夢だっただろう.
「ミユさん,そろそろ…….」
少年が,みゆの体をそっと押した.
みゆはじっと,スミの顔を見つめる.
忘れないように,けっして忘れないように心に焼きつけて.
そして笑顔で別れたいから,にこりと笑みを作った.
「元気でね.」
「はい.」
少年も気持ちのいい笑顔でこたえる.
洞くつの前では,ウィルと翔が一頭ずつロバを引いて待っていた.
「ウィル,柏原君.――帰ろう.」
みゆとウィルは王城へ,翔は地球へ.
バウスからロバを一頭受け取って,みゆは洞くつへ向かった.
黒の少年がみゆと目を合わせて,甘くほほ笑む.
三人で歩き始めると,スミのせっぱつまった声が背中を打った.
「ウィル先輩!」
最後の最後に,少年が呼びかけたのはウィル.
「今までありがとうございました! お世話になりました!」
ウィルは振り返り,黒の瞳を見開いた.
「カイル師匠にやられたとき,助けてくれてありがとうございました.」
みゆとスミよりも,みゆとウィルよりも,スミとウィルの方がずっと付き合いは長い.
みゆの知らない多くのものを,二人は共有していた.
「俺,自分は死んだと思いました.先輩が助けてくれるとは考えていませんでした.」
世界の果ての森での戦いで,スミは負傷した.
無情なやいばが少年の腹に埋めこまれた.
「本当にありが,」
少年は,言葉を詰まらせる.
ひっくと,おえつを漏らして,
「俺,ウィル先輩が好きでした.」
腕で涙をぬぐう.
セシリアがスミをなぐさめるように,そっと体に触れた.
ウィルは,立ちすくんでいる.
今,初めて,別れを実感したのかもしれない.
唐突にスミの方へ進み出て,けれどすぐに歩みを止める.
泣きそうな顔だった.
スミに対して,ともに王国へ帰ろうと,今にも言葉が口から飛び出しそうだった.
だがこらえて,ゆっくりと息を吐く.
やがて,淡いほほ笑みを浮かべた.
「僕も好きだったよ,スミ.――今まで,ありがとう.」
黒の瞳を光らせて.
ウィルの中で,何かが変わるのが見えた.
チョウが羽化するように,鮮やかに.
みゆの目の前で,大人になっていく.
みゆたちは手を振ってスミやバウスたちと別れ,神聖公国を発った.
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