水底呼声 -suitei kosei-

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  8−6  

翌朝,スミは一人でバウスの執務室へ向かった.
部屋には王子のほかに,メイドと文官らしき男と親衛隊の騎士がいる.
騎士には見覚えがあった.
バウスが地下牢にスミに会いに来たときに,おともをしていた男のうちの一人だ.
鼻の下にちょびひげがあり,年は三十から四十程度か.
特に構えてなくても,すきがない.
あとの二人は,初めて見る顔だった.
彼らには構わずに,少年は王子に向かって頭を下げる.
「この国に滞在する許可をください.」
セシリアとともにいるためには,貧民街に隠れ住むわけにはいかない.
彼の返事はそっけなく,
「断る.」
と一言だけだった.
予想どおりだったので,少年は驚かない.
最初から簡単に承諾されるとは,考えていなかった.
だが顔を上げると,周囲の大人たちの表情が動いている.
「何をおっしゃるのですか.」
書類を片手に抱えた文官風の男が,あきれたように息を吐く.
「あなたのご命令で,必要な根回しは終わっているのに.」
彼は王子と同じ年ごろのようだ.
一見すると優しげだが,くせ者にも思える.
スミに近づいてきて,四枚の書類を手渡した.
「署名してから返してくれ.俺は事務官のエリンだ.」
何だろう,これは,と読む間もなく,次はメイドがやってくる.
彼女はバウスやエリンよりも若く見えるが,ずいぶんと雰囲気が落ちついている.
実は若作りで三十才を超えていると耳打ちされれば,信じてしまいそうだ.
「今は背丈が合わないでしょうけれど,」
彼女は微笑して,白い服を押しつける.
「二,三年後には,ぴったりになると思うわ.」
さらに騎士がやってきて,剣を少年によこす.
さやのライオンをかたどった模様が,彼が腰から下ろしているものと同じだった.
「本気ですか!?」
事態を悟って,スミは仰天する.
「うれしいだろう?」
銀髪の王子がそばまで寄ってきて,わざわざ威圧してくる.
「俺の親衛隊に入れてやる.史上最年少で,史上初の外国人騎士だ.ぞんぶんに励みたまえ.」
反射的に,嫌ですと口走りそうになった.
が,すでに少年は,強引な大人たちに囲まれている.
「私はマリエ.困ったことがあれば,すぐに相談してね.」
メイドが,有無を言わさずにほほ笑む.
「ストーだ.親衛隊の隊長を勤めている.」
彼はスミの腕を,がしっとつかむ.
「隊舎に案内しよう.ほかの隊員たちに,君を紹介しなくてはならん.」
「いや,あの,」
少年は部屋から,引きずり出されようとした.
「俺はまだ,引き受けるとは,」
「安心しろ.」
バウスが,にやりと笑う.
「ミユとウィルには話をつけている.」
いつの間に? とたずねる前に,少年はストーにひょいと担がれた.
服や書類を落としそうになって,しっかとつかむ.
扉が閉まる直前,苦虫をかみつぶした王子と視線が合った.
青の瞳は,たがいに不本意だが受け入れろと言っているようで.
あまりの展開の速さに,スミはぼうぜんとした.
しばらく廊下を歩くと,ストーは少年の体を降ろす.
腰を落として,目の高さを合わせた.
「殿下に感謝しろよ,スミ.」
しみじみと話す.
「職と住まいを,君に与えてくださったんだ.」
確かにそういう意味では,少年はバウスに礼を述べなければならない.
しかしあの王子の場合,
「自分の目が届く範囲に俺を置いて,監視したいだけの気もするのですけれど.」
ストーは楽しげに笑って,まったく否定しなかった.

「スミ君,どうしているのかな?」
早朝からスミを送り出したみゆは,のんびりと朝食を取っている恋人に問いかけた.
「知らない.」
ウィルはちっとも心配していないらしい.
昨日,バウスからスミを城に残してくれと頭を下げられたときには驚いた.
だがスミとセシリアのことを考えると,これが一番いいように思える.
スミと別れるのは,想像以上に寂しいが.
いや,見方を変えれば,スミは少女と出会うために神聖公国に来たのかもしれない.
神の結界を越えて,大勢の人々が行きかう街の中で,偶然にすれちがう.
そんな運命的なつながりを,たやすく手放せるわけがない.
「スミは何を悩んでいたのかな?」
ウィルが口をもぐもぐさせながら,不思議そうにつぶやいた.
この国に残るか,カリヴァニア王国へセシリアを連れていくか.
黒の少年にとっては,単純な二択問題だったのだろう.
「多分,いろいろなことを考えていたのだと思う.」
みゆはスミのフォローをした.
「恋愛感情だけで,人生を決められるわけがないし,」
恋人はますます,首をかしげる.
「今,セシリアが好きだからって,それだけで神聖公国に留まるのは,」
そう言えばウィルは,恋愛感情のみで行動しているのではないだろうか.
いけにえだったみゆを救い,神聖公国を目指し,今,ここにいるのも,みゆのため.
父親であるルアンのそばで,安穏と暮らしてもいいはずなのに.
「ウィルには分からないことかもしれない.」
そしてみゆも,恋愛感情で動いている.
誰にも打ち明けたことはないが,王国を救えば,少年の暗殺者としての罪は許されるのではないか,という打算もあった.
被害者にとっては腹立たしい,虫のいい話だが.
つまりカリヴァニア王国の救済活動は,みゆとウィルの個人的な事情によって成り立っている.
いいのだろうか,こんな状態で…….
スミのような不安を,みゆは感じたことがない.
おそらくウィルもないだろう.
今まで気づかなかったが,また気づきたくもなかったが,みゆたちは相当の楽観主義者で恋愛至上主義者らしい.
「それじゃ,今日はお薬や携帯食を買いに行こうか.」
朝食のサラダを食べ終えた少年が立ち上がる.
「うん.」
みゆもいすから離れ,差し出された手を取った.
この手が,自分の前からなくなることは考えつかない.
そしてウィルの手を自分が取らないことも,想像できない.
スミに言ったように,故郷を懐かしむことはあっても,帰りたいとは思わなかった.
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