水底呼声 -suitei kosei-

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  8−4  

百合は神の塔から出たらしい.
みゆがそのことをバウスから聞いたのは,城に滞在して十一日目のことである.
みゆとウィルは毎日,ルアンに会いに行ったり,街の市場や図書館に遊びに行ったりしていた.
「俺はあさってに国王の名代として,ラート・ユリの見舞いに行く.」
次代を身ごもった聖女に頭を下げ,祝辞を述べるのは,代々の国王の大切な仕事だという.
そして出産後は,再び国王みずからが足を運び,赤ん坊にさまざまな贈りものを与える.
気軽な廊下での立ち話で,王子はそう教えてくれた.
「俺の従官として,ついてきてほしい.特に問題なく,彼女と会えるはずだ.」
「分かりました.お世話になります.」
みゆはウィルとうなずきあってから,返答した.
いつもは大神殿に地下道からこっそりと入るが,あさっては正面玄関から堂々と入れるだろう.
百合の無事な姿を確認すれば,カリヴァニア王国へ帰るつもりだ.
翔にも,そう伝えている.
しかしひとつだけ,気がかりがあった.
今,この場にいないスミのことだ.
少年は自覚しているのかいないのか,セシリアに夢中だった.
朝から晩まで少女に張りついて,ここ二,三日など,みゆはほとんどスミの顔を見ていない.
みゆの表情を読んだのか,
「スミのことか?」
バウスが苦笑した.
「はい.」
みゆは答える.
答えてから,彼も同じことを考えているのだと悟る.
だから,こちらの思考が追えたのだ.
「ミユ,君に相談があるのだが.」
王子は,どこかの部屋へ入ろうと提案する.
長い話になることを察した上で,みゆは了解した.

「まいった.」
向かい合って座る少女に,スミは両手を上げて降参した.
「もう一戦する?」
盤上の騎兵や王のコマを取り上げて,セシリアが楽しそうに笑う.
今日は朝から雨が降っているので,部屋で卓上ゲームをしているのだ.
相手の王を追いつめる戦術ごっこで,少年は二戦二敗だった.
三戦目を開始すると,突然,部屋にバウスがやって来た.
「バウス兄さま!」
少女は飛び上がって喜び,子犬のように駆け寄る.
王子は目じりを下げて,少女の頭をなでた.
スミだけは,居心地が悪い.
セシリアの兄である青年に,少年は妙に弱いのだ.
なのでこの十日間以上,できるだけ彼と遭遇しないように努めた.
運悪く対面した場合でも,適当な理由をつけて離れたし,王子もそれを容認していた.
ところが今回,彼はスミと目を合わせてきた.
「君に用がある.」
「何ですか?」
珍しいことだったので,返事が少し遅れた.
「ラート・ユリが神の塔から出た.あさって,ミユとウィルは彼女に会いに行く.」
ぎくりとする.
ついに,来るべきときが来たのだ.
「君はどうする? ついていくか?」
バウスの隣で,少女は何も知らずに,にこにこしている.
「俺は城で待ちます.」
「そうか.」
青の瞳が鋭くなった.
「ならばカリヴァニア王国へ帰る準備をしたまえ,スミ.」
「え?」
彼の言葉に,セシリアの表情が固まる.
「ラート・ユリの顔を見れば,すぐにこの国を出るとミユは言っている.」
「バウス王子!」
スミは声を荒げた.
わざとだ.
彼はわざとセシリアのそばで,この会話をしている.
少女は,おろおろとバウスとスミの顔を見比べた.
そして,少年に向かって問いかける.
「帰るの?」
海を映した瞳は傷ついていた.
スミはセシリアに,故郷へ帰ることを告げられずにいた.
いや,知られないように振るまっていた.
今やこの城の中で,スミたちの帰還を知らないのは少女だけだった.
「十一日間も,君は何をしていたのだ?」
あきれた王子の声が,少年を打つ.
「君が黙って国を去れば,セシリアがどれだけ悲しむのか想像できないのか?」
彼は,スミが帰国を内緒にしていたことを責めている.
「君はひきょう者だ.そんなひきょうな男は,妹のそばにいてほしくない.」
言い返せない.
自分の行動が誠実ではないことは承知していた.
けれどそれを非難していいのは,セシリアかみゆだけだと思っていた.
「スミ,」
こんなときだというのに,セシリアの声は少年を案じていた.
「さようなら.」
顔を見ることができず,言い捨てる.
未練を断ち切るべく,大またで部屋の扉まで歩いた.
「やだ,待って!」
「行くな,セシリア!」
少年は逃げるように部屋を出る.
終わった.
だが,これでよかったのだと自分に言い聞かす.
いつまでも少女とともにいれば,スミはカリヴァニア王国を忘れる.
産まれた村も,自分を置いて立ち去る母親の背中も薄れていく.
もやもやとする気持ちを抱えて,城の中で与えられた客室へ戻った.
部屋では,みゆとウィルが床に座って,本の山に埋もれている.
王国の暗号本を,布袋に詰めているのだ.
みゆはスミに気づくと,心配そうにまゆをくもらせた.
最近,少年は部屋には寝に帰るのみで,日の高いうちに戻ることはなかったのだ.
「セシリアに振られて……,」
ごにょごにょと,いいわけする.
するとみゆは,ただじっとスミの顔を見た.
哀れむでもなく,怒るでもなく.
「スミ君,余計なお世話かもしれないけれど,」
静かに話しかける.
「目をそむけずに,ちゃんと向き合った方がいいと思う.」
セシリアと.
みゆの言葉は,まっすぐにスミの心の底まで届いた.
少年はうつむく.
多分,今,とても情けない顔をしている.
「ミユさん,」
顔を上げると,彼女は透明なまなざしをしていた.
澄んだ湖のようで,けれど多くのものを含んでいる.
美しいものも,汚いものも,つらいことも,安らぐことも.
スミは実感した.
彼女は今まで,困難な決断をいくつもこなしてきたのだと.
「聞いてもいいですか?」
「うん.」
みゆはうなずく.
スミは,彼女の隣にいる黒猫の視線を気にしながら,質問を発した.
「チキュウへ帰りたいと思わないのですか?」
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