水底呼声 -suitei kosei-

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  8−3  

少年はまどろみから,目を覚ました.
視線の先にはセシリアがいて,手慣れたしぐさで針を動かし,花の模様を布に縫いつけている.
ゆったりといすに腰かけて,白い横顔に日の光が降り注ぐ.
スミは,大樹で目隠しされたバルコニーにいた.
少女の向かいの席でのんびりしていたが,いつからか眠ったらしい.
この場所は,快適すぎる.
両手を上げて,うーんと伸びをした.
少年が起きたのに気づいて,セシリアが顔を向ける.
「もうちょっと待ってね.すぐに終わるから.」
にこっとほほ笑んだ.
スミは,でれっと顔を崩しそうになったが,取り繕って適当な返事をする.
ししゅうが完成すれば,一緒に城を抜け出して,街へ遊びに行こうと約束しているのだ.
先日,ライクシードのことで泣いていた少女は,だいぶ気持ちを持ち直していた.
そしてスミは,自分がカリヴァニア王国へ帰ることを教えていない.
言いそびれたこともあるが,積極的に伝えたい事実でもなかった.
加えて,セシリアがもっと元気になるまでは,と考えた.
いや,それはただの言い訳で,今日も明日もあさっても,言うつもりはない.
ウィルとみゆは,朝から国立図書館へ出かけていった.
館長に,別れのあいさつをするために.
みゆは,律儀な性格だと思う.
朝食のときも幾人かのメイドと,――うち二人は双子だった,話をしていた.
みゆは彼女たちに,今までありがとうと頭を下げた.
そんなみゆならば,どう言うのか.
スミは何も告げずに,セシリアと別れようとしている.
彼女はきっと,ふがいない少年をしかるだろう.
いや,ちがう.
スミは,情けない思いで自覚した.
自分はみゆにしかってほしいのだ.
迷いのない瞳で,正しい道を指し示してほしいのだ.

みゆは男装した姿で,国立図書館に足を踏み入れた.
すでに城からも神殿からも追われる身ではないが,周囲から注目されるのを避けるためである.
似たような理由で,ウィルは女装している.
だが,そもそも少年はスカートをはいてしか,図書館には行っていない.
なのでウィルは少女として,館長のナールデンやほかの職員たちと顔なじみだった.
前に訪れたときと変わらず,館内は心地よい静けさに包まれている.
時間がゆっくりと流れているような雰囲気は,日本でも神聖公国でも同じだ.
ただ紙のにおいは,ここの方が強く感じる.
書架棚のまわりは,本を探す人や立ち読みをする人で,混雑していた.
閲覧用の机の一角に,館長の老人はいる.
さまざまな書籍に囲まれて,書類にペンを走らせていた.
「館長様.」
ウィルが少女の声で呼びかけると,彼は顔を上げる.
「やぁ,ウィリミア.」
目が,みゆを捕らえた.
「……ミユ?」
みゆは,ぎこちなく笑みをにじませる.
ナールデンと会うのは,何日ぶりだろう.
かすかに緊張した.
「おひさしぶりです,館長様.隠しごとをして,申し訳ございませんでした.」
頭を下げる.
返答はない.
顔を上げると,彼は優しくほほ笑んでいた.
「君がどこから来た何者であろうと,本を必要とするかぎり,図書館の扉を閉ざすことはない.」
気負いのない言葉だった.
だが,圧倒される.
彼の懐は想像以上に深く,すべてを受け入れていた.
「ありがとうございます.」
みゆは敬意とともに,心から礼を述べた.
「また来てくれて,うれしいよ.」
館長はいすを引いて立ち上がり,そばまでやってくる.
「しかし,君たちが知り合いとは驚いた.」
ウィルが,普段の声でしゃべる.
「そうだよ.彼女は僕のもの,最初からね.」
くすくすと笑った.
ナールデンは目を丸くする.
「君は男の子なのか!?」
彼の声が,初めて大きくなった.
「驚いた,今のが一番驚いたよ.」
愉快そうに笑う.
ひとしきり笑った後で,みゆとウィルの顔を見比べる.
少し悲しそうで,けれど暖かい目をして.
「君たちは二人でいるのが,本来のあり方なのだね.」
彼のせりふにみゆは,どうしたら神に会えるのかとたずねたことを思い出した.
あのとき告げることのできなかった答を,今は告げることができる.
「館長様,ウィルが私の“神様”です.」
どんなときも,みゆは一人ではない.
瞳を閉じれば,いつでもそこにウィルがいる.
「この世界で,――いいえ,すべての世界で,私が愛しているのはウィルだけです.」
カリヴァニア王国を救いたいのは,ウィルのためだった.
決意したきっかけは姉に対する罪の意識だったが,動機はいつの間にか変化していた.
今,みゆの心は過去ではなく,未来を向いている.
ウィルとともに生きる未来を目指している.
ナールデンは静かに,話を聞いた.
やがて,目じりにしわを刻む.
「熱烈な,愛の告白だね.」
「え?」
はっとして横を見ると,恋人が真っ赤になっていた.
片手で顔を覆い,うつむいている.
「びっくりした,」
これ以上はないほどに,照れている.
「今,一番びっくりしているのは僕だ.」
館長は楽しげに笑い,みゆは自分も赤面してしまった.
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