水底呼声 -suitei kosei-

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  7−11  

夜,街の人通りがほとんどなくなったころ.
ライクシードは一人分の荷物を担いで,城の裏口から出て行った.
「バウス殿下の処分は厳しすぎます!」
門番の兵士たちが引きとめようとしたが,迷わず立ち去る.
しばらく進んだところで,城を振り仰いだ.
街のどこからでも見える,巨大な宮殿.
月明かりの下,白く輝いている.
ライクシードが生まれ育ち,今日まで過ごした場所だ.
けれど,二度と帰ることはない.
だから,しっかり覚えておこうと思う.
街を歩いていくと,大通りに兄がひっそりと立っていた.
「兄さん,」
バウスはやってくるなり,一通の封筒を押しつける.
「南方国境警備隊隊長への紹介状だ.つらくても,そこでがんばれよ.」
スンダン王国との国境を守る南方国境警備隊は,軍隊のえりすぐりだ.
訓練の厳しさは国一番であり,ねを上げて脱落する者が多い.
ライクシードは首を振って,封筒を兄に返した.
「受け取れません.兄さんは私を守るつもりでしょうから.」
バウスは黙った.
首都の街での,ライクシードの評判は地に落ちた.
貧民街の住民たちは,ライクシードがみゆに無理強いするところを,一部始終のぞいていた.
物見高く見物していたのだ.
ライクシードの行ったことは,すぐに口から口へと伝わった.
この調子では,明日には首都の住民皆が知るところになるだろう.
カズリの両親からは,すでに婚約破棄を言い渡されていた.
「私を首都から追い出して,自分が悪者になるつもりでしょう?」
周囲の者たちがライクシードに同情するように,バウスは大きな罰を与えた.
そして何年かたって,ほとぼりが冷めれば城に呼び戻すにちがいない.
南方からの帰還となれば,誰もライクシードを悪く言えない.
「お前は少し,道を間違えただけだ!」
兄は,らしくない早口でしゃべった.
「それに今は反省しているし,二度とやらない.」
ライクシードをかばって,言い募る.
「ミユは無事だったんだ.彼女は顔色は悪かったが,着衣の乱れはなかった.」
なのに,目が泣き出しそうだった.
「何もなかったんだ.そうだろう? お前がそんなことをするわけがない!」
「兄さん.」
濁流となって押し寄せる言葉を,ライクシードはさえぎる.
「私は城に戻りません.カリヴァニア王国へ向かいます.」
兄の目が大きく開いた.
「なぜ?」
無防備なほどに,素直な表情だった.
「本気か? 行ったら,戻れないのだぞ.」
驚きが過ぎて,声が震えている.
「はい.だから私を守る必要はありません.」
兄は,ライクシードの肩をつかんで揺さぶった.
「守らせろよ,お前は俺の弟だぞ!」
感情的に叫ぶ.
「セシリアが泣くぞ,――俺も泣いてやる,お前がいなくなったら!」
「兄さん,」
ライクシードは激する兄の体を,そっと押して離した.
「私はずっと,あなたに嫉妬していました.」
みゆを守りたいと思ったきっかけは,何だったのか.
兄に対抗したかっただけかもしれない.
「俺だって,お前がうらやましいさ.」
バウスは,怒っているのか笑っているのか,あやふやな顔をした.
「昔からお前の方が女にもてたし,誰とも親しくなれたし,剣や弓だって,」
青の瞳から,ぽろりと涙が落ちる.
うつむいて,兄は声を押し出した.
「お前の方が,うまい.」
彼の涙を,何年ぶりに見たのだろう.
六年前,母が病気で早世して以来かもしれない.
「兄さん.私はカリヴァニア王国の真実を,実際の姿を,自分の目で確かめに行きます.」
誰も見たことのない,魔物たちが住むと信じられていた伝説の国.
「そして,王国が水没しないで済む方法を探します.」
この国を出て,バウスには頼らずに,自分一人の力で立つ.
それが今の自分には,必要なことに感じられた.
なぜならライクシードは,兄が呪われた王国のために動くことを期待していた.
恥ずかしくなるほどに甘えた,弟の根性で.
「父さんには,事情は話しておきました.」
彼もまた,思いとどまるように涙ながら訴えた.
「セシリアには,」
みゆに乱暴を働いた結果城を出るとは,少女には言えなかった.
「お前は,ばかだ.」
兄はうなだれる.
「そんなことをしても,誰も感謝しない.」
「分かっています.」
ライクシードは言った.
「すみません,兄さん.今まで,ありがとうございました.」
彼と離れることは,想像すらしていなかった.
バウスは王となり,自分はその補佐として,一生そばにいるものだと思いこんでいた.
だが,もう心は旅立っている.
慣れ親しんだ故郷から.
「決めたのだな.」
力のないつぶやきに,ライクシードは,はいと答える.
兄は,ゆっくりと頭を上げた.
顔には,冷静さが戻っている.
ほおに涙は残れども,瞳には理性の光があった.
「次期国王として命じる,」
誰よりも強く,揺るがない意思を持つ.
ライクシードはひざをついて,騎士としての礼を取った.
「使者としてカリヴァニア王国へおもむくことを.かの国の助けとなることを.」
「ご命令,」
あぁ,やはり兄にはかなわない.
「しかと承りました.」
彼はふっと笑う.
「油断するなよ,ライク.」
赤い目をして,けれどいつもの調子で.
みゆが現れたときから,この別れは決まっていたのかもしれない.
バウスに依存し,依存しながら反抗していた.
みゆはそんなライクシードに投げられた,ひとつの石だ.
水面を乱し,沈んでいく.
「ありがとうございます,兄さん.あなたの名代として恥じない振るまいを約束します.」
銀色の月が見守る中,ライクシードは最後の言葉を発した.
「行ってきます.」
さようなら,と.
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