水底呼声 -suitei kosei-

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  6−8  

小テストの結果は毎回,廊下の掲示板にはられた.
京都大学を目指すクラスの中で,みゆは上位十名をキープしていた.
「このクラスの中で確実に合格するのは,俺と古藤さんだけだと思わないか?」
声に顔を向けると,一人の青年が隣に立っている.
冷めた横顔で,掲示板を眺めていた.
柏原翔だ.
みゆと同じく,常に上位にいるクラスメイトである.
彼に話しかけられるのは,――そもそも他の誰ともほとんど話したことはないが,初めてだ.
「ごめんなさい,興味がないわ.」
誰が受かるか落ちるかとか,このクラスの中で何人が受かるかとか.
そういった優越感や卑屈さが多分に含まれるうわさ話をしても,意味がない.
翔の唇の端が,くっと持ち上がる.
「確かに.どうでもいいよな.」
自分自身が合格することが肝要だ.
みゆは返事をせずに,その場を離れる.
京都大学,法学部.
そこに通っていた姉は,両親自慢の娘だった.
「ミユちゃん,何を考えているの?」
ベッドに腰かけて,ぼんやりとしていたみゆは,はっと現実に立ち返った.
同じベッドにいる少年が,心配そうに見つめている.
みゆは多少うろたえた後で,ごまかすような笑顔を作った.
「柏原君と話したことを思い出していたの.」
翔と百合の名前を聞いたせいだ,ちょっとした合間に予備校のことがよみがえる.
今ではすっかり遠くなった,日本での日常が.
「どんな話を?」
「あまり楽しい話じゃない.」
夕食の後,スミとはおやすみとあいさつを交わして別れたが,恋人とは別れていない.
そして,朝までそばにいる.
緊張しているのが,自分でも分かった.
意識があちらこちらに飛んだり,普段は気にならない部屋の散らかり具合が気になったり.
なんせ家具はベッドしかなく,服や日用品はかごの中に適当に放りこんでいるだけなのだ.
この部屋は,生活感が漂いすぎている.
「ミユちゃん,」
少年の手が肩に触れたとき,みゆはびくんと震えてしまった.
手が,そっと離れる.
「君がしたくないのなら,しないよ.」
ウィルはベッドから立ち上がった.
「そういうわけじゃ……,」
うつむいて,言いごもる.
ただ恥ずかしいだけで,あと少しの勇気が必要なだけで,――嫌じゃない.
「待つよ,いつまでも.」
みゆの前でしゃがんで,少年は下から顔をのぞきこんだ.
「エーヌさんに言われた,大切な女性はどれだけ抱きたいと思っても,簡単に抱いてはいけないって.」
「エーヌさんって誰?」
大神殿でも,少年の口から出た名前だ.
愛することは,優しくほほ笑みかけること,柔らかく抱きしめること,素直に自分の気持ちを伝えること.
そのようなことを誰かに習ったとは,意外だった.
けれど,少年がみゆに優しく接する理由が分かったようにも思えた.
「カリヴァニア王国王都の娼館ロードンの女主人だよ.」
「娼館?」
びっくりする.
学校でも教会でもなく,娼館という単語が出てくるとは.
「お友だちだったの?」
少年はうなずいた.
「ミユちゃんを大切にして,幸せになりなさいと言ってくれた.」
うれしそうに笑う.
少年が自分のことをエーヌという女性に教えたことが分かって,みゆは気恥ずかしくなった.
「あのね,ウィル.」
ひざの上に置いた両手を軽く組んで,話す.
「カリヴァニア王国の王城で,私があなたの部屋へ行った夜のことを覚えている?」
そんなに昔のことではないのに,ずいぶん前のことのように感じられた.
「覚えているよ.」
あの夜のことを思い出すと,今でも恥ずかしくなる.
「あのときは,その,……ひと夏の思い出というか,ウィルと出会って好きになったことの証拠がほしくて,部屋へ行ったの.」
まさに,熱に浮かされていた.
何も冷静には考えられずに,夜の城の中恋人の部屋を探し歩いた.
偶然,出会ったスミが部屋へ案内してくれなければ,いつまでもさまよっていただろう.
「今では,ばかなことをしたなと思う.」
少年はなぜか,くすくすと笑い出した.
「ミユちゃんがあの夜,僕の部屋に来なかったらと考えると,今でも恐ろしいよ.」
少年の顔は泣いているようであり,笑っているようでもあった.
かすかに震える両手で,みゆのほおを包みこむ.
「あの夜のミユちゃんの行動,スミの行動,僕の行動.何かひとつでもちがっていたら,僕たちはこうしていられなかった.」
「あ,」
自分がいけにえとして召喚されたことを思い出して,みゆの心は冷えた.
少年があまりに優しくて,その少年がみゆを殺そうとしていたことを忘れていた.
ウィルはみゆの顔から眼鏡を外して,目じりにキスをする.
「最初から,君は僕のものだよ.」
甘くささやく.
みゆは,どさりとベッドに押し倒された.
「君を殺していいのも,君に触れていいのも,」
指が,みゆの体の線をぎりぎり触れない位置でなぞる.
「抱いていいのも,僕だけだ.」
つやのある笑みを見せて,そっと体に触れた.
「怖い?」
これを聞かれるのは,三回目だ.
黒の瞳が,みゆだけを見つめている.
「怖いよ.」
正直に答えた.
心臓がこれ以上はない速さで,鳴っている.
これから,始まることが怖い.
「でも,」
扉をノックするように,少年の胸をコンコンとたたく.
意表をつかれて,少年は目を丸くした.
みゆは,くすりと笑う.
「あなたの部屋へ入れて.」
あの夜は,部屋の扉をたたく前に,内側から開けられた.
「今夜は,思い出や証拠がほしいわけじゃない.」
別れるつもりはない.
「ずっとそばにいる.一生,離れない.」
闇を映す瞳に誓う.
「ウィルが私を,大切にしているのは分かっている.」
君がしたくないのならしないとか,いつまでも待つよとか.
多分,ずっと待ってくれた.
「だけど,もう,」
二人の未来をつなぐためには,
「遠慮しないで.」
少年の顔が,何かをこらえるようにゆがむ.
黒の影がゆっくりと覆いかぶさって,後は波にさらわれたように何も分からなくなった.
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