水底呼声 -suitei kosei-

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  5−9  

踊る炎の中を,少年は一人で走った.
炎の熱気で,体から汗が流れ落ちる.
煙のせいで,視界が悪い.
けれど五感はさえ渡り,体は力に満ちていた.
カイルから習った魔法が,少年の身を守っているのだ.
大神殿は石でできた建物で,燃え上がるものではない.
廊下に置かれていた木箱や木製の棚は,燃え尽きていた.
もしもこれがただの火事ならば,すでに鎮火しているだろう.
しかし,炎が収まることはない.
この炎は,意思を持っている.
許さない,という意思.
少年はついに,炎の核を見つけた.
核は,老女の姿をしている.
長い白髪を乱し,大声でわめいている.
彼女は少年に気づき,瞳を大きく開いた.
「リアン.」
つぶやいた後で,しわの深い顔をゆがませる.
「ちがう.あなたは,あのときの.……なぜ生きているの?」
不思議な問いかけに,炎が一瞬だけ弱まった.
「リアンは死んだのに,マールは死んだのに!」
激情とともに,真っ赤なヘビがのたうちまわる.
「マールは怖くて怖くて,どれだけ恐ろしかったことか!」
燃え盛る炎,どこまでも際限なく.
「臆病な子だったのに,小さなけがをしただけで泣いてしまう子だったのに,――自殺なんてできる子ではなかったのに!」
危険だと,頭ではなく肌で感じた.
炎は波打つように襲いかかり,少年を頭からのみこもうとする.
熱い!
後ろに飛んで避けたが,しぶきがかかった.
少年は逃げる.
波は追いかけてきた.
反撃する余裕も,抵抗するすべもない.
目の前に,壁が現れる.
「え?」
こんな場所に壁などなかった.
幻覚かと思い,両手でバンバンとたたく.
だが確かに壁は存在し,少年の逃げ場を奪った.
炎が頭上に舞う.
――少年の左右も同じく石の壁で,
ゆっくりと落ちてくる.
――逃げることはできない.
私はウィルが一番大切だから,必ず私のもとへ帰ってきて.
彼女を置いて死ぬのか,
「あ,あ……,」
悲鳴がのどの奥からほとばしる,その瞬間,
「ウィル!」
自分を呼ぶ声.
老女よりも強い力が少年を包み,炎の波が熱を失った!
壁が消えて,少年は前のめりに倒れる.
「ウィル,無事か!?」
ルアンがやって来て,少年に覆いかぶさる.
「うがっ,」
目をむいて,うめく.
彼の背中に,ナイフが刺さっていた.
泣いた顔の老女がそれを引き抜き,再び振り下ろそうとする.
だが少年の方が速い!
力任せにルアンを押しのけ,老女の懐に入りこむ.
腹にこぶしをたたきこめば,すぐに彼女は気を失った.
かつんと音をたてて,ナイフが床に落ちる.
ほぉ,と少年は息を吐いた.
黒こげの廊下を残して,炎は消える.
ウィルは彼女の体を横たえて,ナイフを拾った.
護身用の細いものだ,やいばに鼻を当てても毒のにおいはしない.
これならば,――しょせん老女の力だ,ルアンのけがは大したことはないだろう.
そう検討つけて,壁のそばでうずくまる彼のもとへ向かった.
「お父さん,逃げよう.」
しかしルアンは背中の痛みに,うーんうーんとうなっている.
深い傷なのかと疑い,少年は彼の背中に回った.
布地に血がついているだけで,傷口から血は流れていない.
彼は大層苦しげだが,傷はやはり浅いようである.
「お父さん,立って.そして歩いて.」
こんな大きな体を担ぐのは嫌だ,と少年は思った.
ルアンはウィルよりも背が高く,あきらかに体重も上だろう.
「僕のことは,いいから,……逃げなさい.」
額にあぶら汗をかきながら,父親は途切れ途切れに話した.
「僕は死ぬ前に,君に会えただけで十分だ.」
「この程度の傷では死なないよ.」
死ぬどころか,歩けなくなるほどの傷でもない.
「お父さん,しっかりして.」
いきなり,彼は顔を上げた.
「お父さん!? 今,お父さんと呼んだ!?」
少年の手を握りしめて,せきこむように問う.
うるうると潤んだ瞳で,少年をじっと見つめた.
「うん,呼んだよ.お父さん.」
愛想よくほほ笑めば,ルアンは喜びのあまり泣き出してしまった.
「お父さ,……僕は,君の,」
うっうっとおえつを漏らして,鼻水をたらす.
「はやく逃げようよ.」
少年は,彼の感動を共有できない.
老女は気絶したが,いつ目が覚めるとも知れないのだ.
「行くよ.」
ぐずぐずしていられないと,強引に父親の肩を担ぐ.
痛みのために悲鳴を上げるルアンを無視して,少年は隠し通路の入り口を目指した.

みゆがウィルの帰還を待ちわびていると,黒の少年は隠し通路の出口からひょっこりと帰ってきた.
「おかえりなさい!」
「ただいま.」
少年はにっこりと,今度こそいつもと同じ笑顔を見せる.
髪や服が汗でぐっしょりとぬれていたが,けがはなく元気そうだった.
けれど少年の次に出て来たルアンは,胸を包帯でぐるぐると巻かれている.
「大丈夫ですか?」
心配してたずねると,
「大丈夫だよ,大きな傷じゃないし.」
彼はうれしそうに笑った.
「それにウィルが,手当てをしてくれたんだ.」
「そうですか.」
よかったと,みゆもほほ笑む.
するとウィルが,みゆに向かって眼鏡を差し出した.
「ミユちゃん,取り戻したよ.」
大神殿の中を駆け回っていたときになくした眼鏡だ.
「ありがとう.どこに落ちていたの?」
何も言わなかったのに,探してくれたらしい.
「落ちて? 盗られたのじゃなかったの?」
少年は,予想が外れたという顔をした.
「なんで眼鏡なんかが盗られるの?」
聞き返すと,少年はうそっぽい笑みを作る.
「スミ,留守中に変わったことはなかった?」
スミに話しかけて,煙に巻いた.
みゆは追求しようとしたが,二人がこれからどうするか真剣に相談し始めたので,断念する.
「今,動くのは危険だね.夜を待って,首都へ戻ろう.」
「そうですね.ここは見晴らしがよすぎるので,地下に身を潜めていましょう.」
ほとんど時間を費やさずに,少年たちは結論を出した.
スミは身軽に,はしごを降りていく.
「ミユちゃん,スミの次に降りて.」
ウィルが指示を出す.
「ミユちゃんの次がお父さんで,最後が僕ね.」
お父さんという言葉に,ルアンの顔がでれっと崩れた.
うれしくてうれしくてたまらない,という風に.
それを分かって,少年が男を手玉に取る子悪魔のように,かわいらしくほほ笑んだ.
はしごに足をかけて,みゆは絶句する.
ウィルは彼を父親だと認めたのだろうが,親子関係というものをいろいろと誤解しているようだ.
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