水底呼声 -suitei kosei-

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  5−10  

いつか,こんな日が来ると思っていた.
すす汚れた廊下で倒れているサイザーを見つけたとき,セシリアはそう感じた.
ついに聖女が,神聖公国からいなくなってしまう.
少女には,聖女の力はないのだから.
連れ立った神官の男らは悲鳴を上げて,老聖女の体にすがりついた.
「目を開けてください,ラート!」
苦い思いが,腹の底からわき起こる.
少女に対してあなたは聖女ですと言いながら,これが彼らの本音なのだ.
隣に立つライクシードが,少女の肩をしっかりと抱いている.
どうやら自分は,足もとがおぼつかないらしい.
サイザーの口から,ううんと声が漏れた.
「ラート・サイザー!」
神官たちが手放しで喜ぶ.
セシリアも,心から安堵した.
「ラートを外へ,丁重にな.」
神官長が命を出し,すぐに神官の男たちは従う.
サイザーは顔色は悪いが,特に外傷があるようではなかった.
「よかった.」
ライクシードが,小さくつぶやく.
そして少女を励ますように,肩をぽんぽんとたたいた.
そう,大丈夫だ.
けれど,いつまで大丈夫か分からない.
サイザーは,すでに六十三歳である.
いつ,はかなくなってもおかしくない.
みゆを探さなくてはならない.
新しい聖女を.
セシリアはライクシードに,彼女を探そうと言おうとする.
だが同時に,もはや兄を頼れないことに気づいた.
みゆには恋人がいた.
兄の想いは一方的なもので,彼女を困らせていた.
しかし彼はあたりを見回して,彼女の影を探す.
そして少し離れた場所にある,開いたままの黒こげの扉に気づいた.
みゆがいた部屋の扉だ.
ライクシードが手をかけると,扉は力尽きたようにばたんと倒れる.
彼は部屋の中へ入っていった.
一人残された少女は,その場でうずくまる.
――だからミユに,聖女になってください,その後でいいから結婚してくださいと頼めばいいの.
あんなことを言うのではなかった.
ライクシードに,自分の両親のような不幸な結婚をしてほしくなかった.
それにみゆも,兄のことを好いていると考えていた.
――君が好きなんだ! 守りたいと,助けたいと思っているのに.
彼女に感情をぶつけるライクシードは,別人のようで怖かった.
そしてウィルは,ものすごく怒っている.
だから見せしめとして,兄の服を裂いたのだ.
「私が悪かったんだ.」
セシリアは,みゆの話を一度も聞かなかった.
聖女になってと自分の願いを押しつけるだけで,彼女の気持ちをたずねなかった.
みゆが首都神殿に閉じこめられていたときも,いくらでも会う機会はあった.
けれど聖女になりたくないと言われるのが怖くて,彼女を避けたのだ.
ちゃんと話をしていれば,恋人がいると教えてくれただろうに.
恋人がいることを知っていれば,ライクシードだって彼女を追いかけなかった.
それとも二人が禁足の森で出会ったときから,こうなることは決まっていたのだろうか.
となると,やっぱり私のせいだと思う.
ライクシードが禁足の森へ入ったのは,少女のためだ.
そしてセシリアは彼に,みゆを保護するように頼んだ.
首都神殿で自分の客になるより,城でライクシードの客になる方が安心だと考えて.
「ラート・セシリア,……ですよね? どうなさったのですか?」
気づくと,数人の若い兵士たちが少女の前に立っていた.
「私たちはバウス殿下の親衛隊の者です.体調が悪いのならば,外までお連れしますよ.」
「大丈夫よ.」
少女は笑顔を作り,立ち上がる.
彼らは驚いたように,目を見張らせた.
顔を赤くして,なぜか一人ずつ自己紹介を始める.
「用事があるときは,ぜひ僕を使ってください.」
「いえ,私の方が頼りになりますよ.」
少女が対応に困っていると,ライクシードが廊下に戻ってきた.
セシリアを囲んでいる兵士たちを見て,険のある顔つきになる.
「妹に言い寄らないでくれ.」
「申し訳ございません.」
彼らは身を小さくして,少女から離れた.
「何の用なんだ?」
ライクシードがたずねると,彼らはバウスから至急の伝言があると言う.
一人の兵士が両手を口に当てて,ライクシードの耳もとでひそひそと話す.
兄の表情が,まじめなものに変わった.
「どういうことだ?」
まゆをひそめて問う.
「そのぉ,」
彼はうまく説明ができないらしく,口ごもった.
「セシリアに隠す必要はない.大きな声で,もっと分かりやすく説明してくれ.」
すると意を決したように,別の兵士が口を開く.
「呪われた王国へ続く洞くつから,二人の人間が出てきました.彼らは異世界チキュウの者であると主張し,カリヴァニア王国国王の書状と贈りものを携えています.」

ルアンの部屋で,ウィルは耳をすまして王子たちの話を聞いた.
国王の命令で,カイルが異世界の人間を召喚したのだろう.
いけにえとしてではなく,外交の使者として.
少年のねらいどおりだった.
ドナートはみゆの手助けをすると予想していた.
しかし今では,その必要はない.
彼女はウィルが助ける.
使者は使者で,勝手にがんばればいい.
王子たちの足音が遠ざかる.
城へ戻ることにしたようだ.
少年も,自分を待つ人たちのもとへ帰ることにする.
王子が発見できなかった隠し通路の入り口を開き,中へ入る.
父親の魔法によって,通路はほの明るくなっていた.
歩いていくと徐々に明るくなり,一番明るい場所に,みゆとスミとルアンが立っている.
彼らは額をつき合わせて,一冊の本に見入っていた.
カリヴァニア王国の秘密について書かれた本である.
少年はそっと背後に忍び寄って,みゆの肩越しに紙面をのぞく.
――だいといさずずけどすったろんて……,
意味の分からない文字の羅列だ.
だが少年には見覚えがある.
「暗号だね.」
声をかけると,みゆは驚いて「きゃ!」と叫んだ.
「びっくりした.――ウィル,お帰りなさい.」
恋人に笑みを返して,少年は再び本に視線を落とす.
「双対複冊(そうついふくさつ)式の暗号だね.神聖公国にもあるとは思わなかった.」
驚いた顔をして,ルアンとスミが同時に聞いてきた.
「ウィル,分かるのかい?」
「先輩,読めるのですか?」
「うん,解き方を知っているよ.スミは知らないの?」
カリヴァニア王国王家に伝わる暗号だ.
ウィルは,国王から教わったことがある.
彼は遊び半分で教えたのだろうが,少年はしっかりと覚えていた.
「知りませんよ.俺は先輩のように,陛下のお気に入りではありませんでしたから.」
スミはすねたように,唇をとがらせる.
「どうやって解くのかい?」
父の質問に,ウィルは答えた.
「ある規則に則って,二冊の本を交互に読むの.もう一冊,本があるでしょう?」
「二冊?」
彼の顔は困惑している.
「うん.たいていの場合,同じ表題の本だよ.」
「それはあるのだけど,」
うーんと,首をひねっている.
「二百,いや三百冊ほど,あるのかなぁ.」
少年は一瞬,言葉の意味を図りかねた.
「本棚いっぱいに同じ本が並んでいる.中身はちょっとずつちがうみたいだけど.」
「ということは,その中の二冊だけが正解で,残りはにせものですか?」
スミが指をあごに当てて,考える.
「いや,その冊数で暗号になっているのかも.」
ウィルは,暗号の基本しか教わっていない.
応用として,三冊以上のものもあるのかもしれないのだ.
みゆは本のページを一ページずつ,丹念にめくる.
「本自体に仕かけがあって,隠しページとかがあるのかしら?」
鼻を近づけて,くんくんとかいでみる.
「火であぶったり水に浸したりすれば,文字が出るとか.」
彼女は簡単に言うが,失敗すれば紙は燃えるし溶けてしまう.
「隠れ家に帰ってから,慎重に調べよう.」
ウィルは念のため,みゆから本を取り上げた.
彼女は意外に,力任せで強引なのだ.
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