水底呼声 -suitei kosei-

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  5−8  

神官長とともに,ライクシードとセシリアは建物の外に避難していた.
大神殿の前庭は,神官や巫女たちで混雑している.
彼らは皆,これからどうなるのかと心もとない顔をして,ささやきあっていた.
あの後ライクシードたちの前に,息を切らした聖女サイザーが現れた.
彼女はすぐに,扉の向こうのルアンと言い争いを始める.
ウィルとみゆは渡さないと言い張るルアンに,扉をこじ開けようとするサイザー.
唐突に,――セシリアや神官長は予兆を感じたのだろうが,あたり一面が燃え上がる!
ところがライクシードは無事だった.
銀の少女が盾になり,ライクシードたちを守っている.
朱色の世界に白い立ち姿が映えて,炎をはらんだ風が長い髪を揺らす.
細い腕が,ぶるぶると震えている.
聖女の炎をくいとめることは,少女には荷が重いのだ.
「やめてください,ラート・サイザー!」
セシリアが力尽きてしまう.
けれど彼女は構わずに,扉に向かって叫び続けるばかり.
「逃げましょう.」
半分以上腰を抜かして,神官長が言った.
ライクシードはセシリアの手を引き,神官長を抱きかかえて,全力で走る.
火事は激しいが局地的なもので,すぐに炎から抜け出た.
だが熱風が背中を押し,床が突き上げるように揺れて,ライクシードたちは追い立てられる.
まさに命からがら,地下から脱出したのだ.
そのように地下はひどいありさまだったが,建物の外に出るとまったく火の手は見えない.
しかし二人のけんかが続けば,大神殿すべてが炎に包まれるのかもしれなかった.
それを警戒してか,若い神官と兵士たちが本を次々と外へ運び出す.
大神殿には,貴重な書籍が数多く保存されているのだ.
前庭に出された本は,三つ四つの小山となっていた.
そもそもの大神殿への訪問の目的を,ライクシードは思い出す.
あの中に,カリヴァニア王国の書物もあるのだろうか.
山に向かって,一歩を踏み出したとき,
「眼鏡は返してもらうよ,王子様.」
ぽんと背中をたたかれて,すぐ後ろから少年の声.
驚いて振り返ると,トンと肩を突かれて,ライクシードはよろめいた.
顔さえ見せずに,あっという間に黒い風が行き過ぎる.
「ウィル!」
叫んだとたんに,黒髪黒服の少年は人ごみの中にするりと消えた.
ライクシードは追いかけようとしたが,
「兄さま,服が……!」
セシリアがおびえた声を上げて,引き止める.
ライクシードの上着は,刃物によってすっぱりと切られていた.
さらに,――いや,これが目的なのだろう,懐に入れていたみゆの眼鏡がなくなっている.
「けがはない? なんで,こんなひどいことを,」
心配する少女に,ライクシードは大丈夫だと笑顔を見せた.
「布地をやられただけだ.けがはないよ.」
内心では,嵐が吹き荒れている.
なぜ少年が大神殿の外にいるのか,ならばみゆはどこにいるのか.
そして不意をつかれたとはいえ,力の差を見せつけられた.
彼女に会ったときに返そうと思っていた眼鏡を,先に取り戻されたのだ.

人々がごった返す中,黒猫の少年は大神殿に足を踏み入れる.
混乱しているのか,男たちは本のほかに,いすだの鍋だのまで持っていた.
ウィルを目にとめる者もいたが,両手がふさがった状態では何もできない.
せいぜい「お前は誰だ!?」と誰何するのみだ.
神官も兵士も貴重品の運搬に手いっぱいで,少年は誰の妨害も受けずに走った.
細長い廊下で,つと立ち止まる.
とたんに,誰かが後ろからぶつかってきた.
「おい,危ないな! 急に止まるなよ.」
大量の白い布を抱えた兵士はしかりつけ,その後でいぶかしげに,まゆをひそめる.
「誰だ? まさか火事場どろぼうなのか?」
少年は,にっこりとほほ笑んだ.
「すぐに避難した方がいいよ.ここは火の海になる.」
「へ?」
面くらう男を無視して,少年は廊下の奥を凝視した.
奥には,誰も人はいない.
だが熱が感じられる.
「神よ,神よ.たとえ大地が燃え上がろうとも,」
薄闇の中で,ちらりと小さな炎が生まれた.
一瞬で,炎は大きくなり,
「私の身は焼けない.私の心は消えない.」
氾濫する川の先端のように,圧倒的な物量で押し寄せる!
ウィルは両手を大きく広げた.
「あなたへの忠誠があるかぎり!」
バンっと破裂音が響く.
少年という壁にぶつかって,川が怒り狂う音だ.
行き場を失った炎はその場に留まり,天井までなめつくす.
降り注ぐ,火の粉.
悲鳴を上げて,男たちが逃げる.
白い服を着た神官も,剣を携えた兵士も,みすぼらしいかっこうの下働きの男も.
荷物を捨てて,たがいに助け合いながら,ほうほうの体で散っていく.
もう人を殺さないでという恋人の頼みを,ウィルは完璧に守っていた.
あと少しでも少年が来るのが遅かったならば,彼らは炎に巻かれていただろう.
少年は満足して立ち去ろうとしたが,漏れがあることに気づいた.
「おじさん,はやく逃げてよ.」
なぜか一人の神官が残っている.
「君は何者だ?」
恐れおののきながら,あごと鼻の下にひげのある男は問いかけた.
額から汗が流れ落ちて,顔中がぬれている.
「知らない.」
少年は正直に答えた.
「黒猫のウィルと呼ばれていたけれど,分からなくなっちゃった.」
でも分からなくていいと思う.
みゆがウィルと呼ぶかぎり,少年はウィルであり,ほかの何者でもないのだ.
「ラート・ルアン.」
男はぼう然とつぶやく.
「申し訳ございません.私は神官長の命令には逆らえなくて,」
少年に向かって,両手を伸ばす.
「なんとむごいことを,神の目が届かない森の中で,」
「逃げられなくなる前に逃げた方がいいよ.」
ぶつぶつと話す男に,少年はもう一度言った.
今は炎の流れをせき止めているが,長くできるものではない.
「許してください,ラート・リアン.あなたの忘れ形見を,あなたの命をつぐ赤ん坊を,」
彼は少年を通して,別のものを見ていた.
「いいえ,許されてはいけません.なぜ私は誰からも罰せられずにいるのでしょう.」
ふらふらと,炎の中へ入ろうとする.
少年はナイフを,彼の足もとに投げつけた.
「危ないよ.」
男の歩みが止まる.
「殺してください.」
男の顔は汗ではなく,涙でぬれていた.
「嫌だよ.」
簡潔に断る.
「さっさと逃げてよ.僕は急いで,」
どんと爆発音が遠くから聞こえて,かすかに床が揺れた.
「ルアンを助けにいかなくちゃ…….」
みゆの望みを果たさなくてはならない.
しかし今,ウィルはそれだけではないあせりを感じていた.
心臓がどくどくと鳴り,彼の何かを請い願うような顔が頭の中にちらつく.
――あぁ,君は本当に,
突然現れた男は,気味が悪いほどに自分と同じ顔をしていた.
――僕のリアンにそっくりだ.もっと顔をよく見せてくれ.
「十六年前,私はあなたを森の中に埋めようとしました.」
こちらの話を聞かない男に,少年はいらっとした.
「けれどカイルがあなたを連れ去り,恐ろしい魔物たちの王国へと…….」
これ以上は付き合っていられない.
「一人で逃げてね.僕は行かなくちゃいけないから.」
少年は男を置きざりにして,走り出した.
「私は,この罪から逃げるわけにはいかないのです.」
声は少年の耳には届いたが,心には届かなかった.
少年の注意は,別のものに向けられている.
ルアンのもとへ,この炎の中心へ.
自分が産まれた場所を,知らず知らずのうちに目指していた.

「最後に,あなたの成長した姿が見れてうれしかったです.」
少年を見届けた後で,男は炎の中へ身を投じる.
自分が殺そうとした赤ん坊に,助けられるわけにはいかなかった.
あの赤ん坊が自分を助けることは,あってはならなかった.
だから自分は,炎に焼かれて死ぬのだ.
もしもあのとき赤ん坊を殺していれば,ここで終わる運命だったのだから.
今,やっと裁きのときが訪れたのだから.
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