水底呼声 -suitei kosei-

戻る | 続き | 目次

  4−10  

鏡台の鏡を見ると,丸いすに腰かけるみゆの髪を,かやがブラシですいていた.
姉の優しい手が気持ちいい.
みゆは姉が大好きだった,姉もみゆを愛してくれたと思う.
だから,みゆは宣言した.
私は,姉さんと同じ大学へ行くわ.
だがかやの顔は悲しげにくもり,みゆは不安になった.
ならばカリヴァニア王国を救ってみせる!
けれど姉は首を振る.
私は,そんなことを望んでいない.
姉さんの望みは何なの?
みゆは体ごと振り返る.
そこにいたのは,――髪をすいていたのはウィルだった.
君が好きだよと,にっこりとほほ笑む.
まぶしい光が世界に満ちて,みゆは目覚めた.
「んー,」
うーんと伸びをして,起き上がる.
「よく寝た.」
本当にぐっすりと眠っていた.
ひさしぶりに気持ちのいい朝だ.
窓から差しこむ太陽の光を,みゆは浴びる.
暗い部屋に閉じこめられていたことが,遠い過去のようだ.
ぼーっとしていると,後ろから髪をつんと引っぱられた.
振り返ると同じベッドの上で,黒の少年が髪に口づけている.
「ウィル.」
昨夜の記憶がよみがえる.
ベッドに入ってもなかなか眠れなかったみゆに,少年は辛抱強く付き合ってくれた.
ずっと髪をなでて,手を握ってくれた.
「ありがとう.おかげで,よく眠れた.」
みゆがほほ笑むと,少年も笑顔を見せる.
「どういたしまして.でも僕は,さすがに我慢の限界だよ.」
「ごめんなさい.夜遅くまで付き合わせて,」
そういう意味じゃないよと言って,少年はみゆにキスをした.

ウィルとともに一階へ降りると,若草色の髪の少年がテーブルでパンを食べていた.
フランスパンのような形状のパンを丸かじりである.
ほおをぷくぷくとさせて,おはようございますと言った.
「おはよう,スミ君.」
いすに座って,みゆも食事を始める.
かごに入った小さなパンを手に取った.
「城は一晩中,明かりがついていましたよ.ウィル先輩.」
「お城の人たちは大変だね.」
みゆの隣に腰かけた黒猫は,くすりと笑む.
「こんなにも近くに住んでいるのに,まだ僕たちを見つけられないのかな.」
「え? 近くなの?」
パンをちぎって,みゆは驚いた.
「窓のカーテンは開けないでくださいね.兵士たちが通りをうろついていますから.」
口の端にパンくずをつけて,スミは注意を促す.
「昨日は二回も,不審者を見ていないか,たずねに来ましたし.」
「いつの間に?」
まったく覚えがなかった.
「二回ともミユさんが寝ている間です.」
むしゃむしゃと,少年はパンを食べ終える.
「俺が応対して,怪しい人物は見ていませんと言ったら,すぐに引き下がりましたよ.」
「そうなんだ.」
「でもミユさんは顔を知られていますから,気をつけてくださいね.」
もぐもぐ,ごっくんとうなずいた.
いったい今,どれだけの人が,みゆたちを探しているのだろう.
サイザーやバウス,ライクシードやセシリアの顔が脳裏に浮かぶ.
特に,何かと助けてくれたライクシードには,罪悪感が募った.

城下の街を,ライクシードは足早に歩く.
すれちがう兵士たちは,あくびをかみ殺していた.
彼らは夜通し捜索をしていたのだ,眠くて当然だろう.
ライクシードも寝不足だった.
昨夜,部屋で待っていたカズリを見た瞬間,悟った.
彼女をこれ以上,振り回してはいけないと.
カズリは待ちくたびれた様子で,ベッドに座っていた.
ライクシードの姿を見ると,ほっとした表情になったが,やはり瞳は不安そうに揺れていた.
慣れないしぐさで誘惑しても,痛々しいだけだった.
ライクシードは彼女に,婚約の解消を頼んだ.
自分がいかに彼女を不幸にしているか,よく分かった.
長時間,部屋に待たせて,ほかの女性を忘れるために抱こうとした.
最低な男だ.
けれどカズリに泣きつかれて,ライクシードは一晩中,彼女と話し合いを続けたのだ.
図書館に着くと,城の兵士たちが建物を囲っている.
普段は住民たちでにぎわう場所なのに,これでは誰も近づけない.
ため息を吐いて,ライクシードは玄関の大きな扉をくぐった.
案の定,館内は静かだ.
奥の閲覧席に,館長と一人の青年がぼんやりとした風情でいる.
ライクシードに気づくと,館長はほほ笑み,青年は立ち上がった.
「失礼します.」
青年は,ライクシードに会釈してから立ち去る.
彼の背中に,館長が声をかけた.
「ユージーン.殿下とお話したら,私も帰ると妻に伝えてくれ.」
「承知しました,おじい様.」
どうやらナールデンの孫らしい.
「迷惑をかけます,館長殿.」
ライクシードは謝罪する.
彼らの仕事を奪っているのは,城の兵士たちだ.
館長は,ゆるゆると首を振る.
「殿下,あなたが謝ることではありません.」
――どうか謝らないでください.殿下は本当によくしてくれています.
ライクシードをいたわるほほ笑みが,彼女を思い出させた.
忘れることができるなら,とっくに忘れている.
カズリを抱いたとしても,消えるものではない.
ライクシードは,館長の向かいの席に腰を降ろした.
しばしの沈黙が流れる.
「あの子は,」
ゆっくりと,彼は話し出した.
「ここで何を調べたかったのでしょうか.」
「分かりません.」
正直に答える.
みゆは神聖公国について勉強したいと言った.
しかし彼女には,もっと明確な目的があったように思える.
「ミユはカリヴァニア王国から来たのです.」
信じられない話だが,それを信じないことには話が進まない.
「私は今まで,そんな国はただの迷信だと思っていました.」
少し前までは,禁足の森の警備は形ばかりのものでしかなかった.
誰も本気で,魔物たちが襲ってくるとは考えていなかった.
「そして首都神殿からミユをさらった少年は,神の一族らしいです.」
なぜ神の一族が,彼女を連れ去るのか.
しかもサイザーのあの態度.
ナールデンは何も言わず,ただ黙っていた.
しばらくしてから,彼は口を開く.
「カリヴァニア王国について書かれた本は,大神殿にあります.」
ライクシードは驚いて,館長の顔を見返した.
「そのような本が存在するのですか?」
「えぇ.ですが,私は読んだことはありません.」
そのときライクシードは,人の気配に気づいた.
誰かが隠れて,話を盗み聞きしている.
先ほどの青年かと思ったが,気配が異なる.
ライクシードは腰の剣に手をやって,立ち上がった.
「誰だ!?」
「きゃっ!」
本棚の向こうから悲鳴が上がって,一人の少女がおずおずと姿を現した.
戻る | 続き | 目次
Copyright (c) 2009 Mayuri Senyoshi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-