水底呼声 -suitei kosei-

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  4−11  

少女は本を胸に抱いて,ライクシードの視線におびえていた.
粗末な服を着た,黒髪黒目のかれんな少女である.
「ウィリミア.」
館長は少女と知り合いらしく,親しげに声をかける.
「怖がらなくていいよ.この方はライクシード殿下だ.」
そしてライクシードには,内気な子なのですと説明した.
つまり少女は話を盗み聞きしていたのではなく,単に出づらかったのだろう.
神経質になりすぎたと,ライクシードは体から力を抜いた.
ナールデンが手招きすると,少女は小走りで寄ってくる.
彼は改めて,少女を紹介した.
「殿下,この子はウィリミアです.貧民街に住む子ですが,よく本を読みますよ.」
「よろしく.」
ライクシードは笑顔を作ったが,怖がらせてしまったせいか,少女は館長の背中に隠れた.
ナールデンは少女の非礼を謝罪してから,本棚の方へ少女を連れて行く.
「本を返しに来たのかい?」
「はい.でも兵士たちが…….」
「気にすることはないよ.今日も本を借りて帰ればいい.」
二人の姿が消えてから,ライクシードは再びいすに腰を降ろした.
いすの背にもたれて,足を無造作に組む.
大神殿は,リナーゼから東にある.
歩いて行ける距離なのだが,気軽に行ける場所ではない.
大神殿は,神殿の中でも特に,人の出入りに厳しいのだ.
大神殿へ入るためには,父である国王から申し入れをしてもらわなくてはならない.
国の要である聖女を擁する神殿は,大きな権力を持つ.
国王でさえ,頭を下げなくてはならないほどの.
考えこんでいると,館長らが戻ってきた.
少女はライクシードに軽く頭を下げて,図書館から出て行く.
揺れる長い黒髪を,ライクシードは見送った.

少女は図書館を出て,首都の街を歩く.
街の中は,兵士たちがうろうろとしている.
だが,ただうろうろとするだけで,成果はなさそうだ.
少女は,くすりと笑みを押し隠す.
城の裏手にある貧民街に入ると,兵士たちの数はぐっと減った.
しかし通りに面した家はすべて扉を閉ざし,窓にはカーテンをかけている.
身に覚えがあろうがなかろうが,兵士たちの視線にさらされるのは嫌だろう.
もちろん少女の家も,しっかりと目隠しをしている.
覆いを取るわけにはいかない.
中に,大切な女性を隠しているのだから.
「ただいま.」
機嫌よく声を出して,少女,――女装したウィルは玄関の扉を開けた.
「おかえりなさい.」
テーブルでリンゴの皮をむいていたみゆが,笑顔で迎える.
少年は,にっこりとほほ笑んだ.
「図書館で本を借りてきた.館長様はお元気だったよ.」
「よかった.――ウィル,リンゴを食べる?」
「うん.」
テーブルの上のリンゴを取ろうとすると,横から手がにゅっと伸びてくる.
「はい,どうぞ.」
むいたばかりの,いびつな形のリンゴを差し出された.
少年は,それをまじまじと見つめる.
「ありがとう.」
受け取って,彼女のほおにキスする.
白いほおに,赤い花びらが残った.
「口紅がついちゃった.」
くすくすと笑うと,みゆは真っ赤になってほおを押さえる.
「もっとキスしていい?」
そっと抱き寄せると,
「駄目! お化粧を落としてから!」
彼女は腕をつっぱって逃げた.
そして手ぬぐいで,ごしごしとほおをぬぐう.
ばか,なんてことをするのよと言っているが,本気で怒ってはいない.
少年はくしゃりと,リンゴをかじった.
甘酸っぱい味が,口の中に広がる.
「おいしいよ.」
するとみゆはうれしそうにほほ笑んで,別のリンゴを取り皮をむき始めた.
包丁を持つ手はぎこちないが,けがをする心配はなさそうだ.
ウィルはリンゴを食べ終えて,階段へ向かう.
ちょうど入れちがうように,スミが一階へ下りようとしていた.
「手を貸しましょうか?」
裏声を作って声をかけると,少年はぎょっとして足を止める.
次に,苦虫をかみつぶしたような顔になった.
「相変わらず詐欺ですね,その女装は.」
「かわいいでしょ?」
小首をかしげて,同意を求める.
「自分で言わないでください.」
スミはあきれた調子で言って,えっちらおっちらと階段を下りた.
階段を譲ってから,ウィルは二階へ上がる.
自室に戻ると,かつらを取って,化粧を落とした.
スカートを脱いで,いつもの黒服に着替える.
女装は,カリヴァニア王国の娼婦エーヌに教わった.
教わったというよりは,おもしろ半分に化粧を施され,ドレスを着せられただけだったが.
――私はあなたを,わが子のように想っているわ.
彼女は先ほどのみゆと同じように,皮をむいた果実を与えてくれた.
そのときには,この行為が理解できなかった.
だが,今なら分かる.
そしてエーヌとカイルの関係も.
――ひさしぶりに来てくれたと思ったのに,私になんてことを頼むの?
ウィルを連れてやってきたカイルに,彼女は顔をしかめた.
――悪趣味だわ.
けれど彼女はカイルの望みどおりに,少年に女性の抱き方を教えた.
そして彼には内緒だとささやいて,それ以外のことも.
――ウィル,覚えていて.愛することは……,
彼女はきっと,カイルを愛していた.
着替えを終えた少年は部屋を出て,にぎやかな話し声のする一階へ下りる.
テーブルについて,みゆとスミに図書館で見聞きしたことを伝えた.
すぐに彼女は,大神殿にあるという本を読みたいと言い出す.
「図書館の本には,カリヴァニア王国のことはまったく書かれていなかったわ.」
リンゴをかじりながら,スミはうなずいた.
「神に呪われた王国だから,隠されているのでしょうね.」
ウィルが着替えている間に,もらったのだろう.
そう思うと,多少むかついた.
「大神殿は,リナーゼの東にある.」
神聖公国の大まかな地理は,すでに把握している.
特に首都やその近郊の地図は,図書館で借りるだけでなく,本屋でも購入した.
「すぐ近くのはずだから,今から偵察に行くよ.」
「俺とミユさんは留守番ですね.」
スミはまだ腹の傷が治っていない.
「ちゃんと彼女を守ってね.僕は日が落ちるまでに帰ってくる.」
「了解です.」
リナーゼの門は閉じているが,少年には関係ない.
間抜けな兵士たちの目をかいくぐり,ひらりと壁を飛び越えるだけだ.
ふと気づくと,みゆが心配そうな顔をしている.
「どうしたの?」
「うん…….」
彼女には珍しく,歯切れが悪い.
「何か夢を見たような気がして.」
しかし思い出せないようで,首を振った.
「ごめん,分からない.ウィルが出てきたと思うのだけど.」
「僕が出てきたのなら,いいや.」
スミがあきれた表情をしたが,無視をする.
リンゴも夢も,本当は何もかも独占したかった.
次は少年の姿で,誰からも悟られないように家を出る.
大神殿の建物を遠目に見て,可能なら内部にもぐりこんで,すぐに帰るつもりだった.
みゆのもとへ.
そしてもう,彼女を抱いてしまいたかった.

ウィルがいなくなってから,五日後.
みゆとスミは,黒猫を探すために大神殿へ行くことを決めた.
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