水底呼声 -suitei kosei-

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  4−9  

気まずい沈黙が,二人の間に降りた.
ライクシードに関して,みゆはやましいことはしていない.
誤解だと説明すべきだろうか.
しかし事実として,神聖公国に来てからずっと彼の恋人扱いをされていた.
さらに,告白のようなものもされてしまった.
少年が怒るのは,当たり前かもしれない.
みゆは悩んだ.
この契約書に署名すれば,丸く収まるのだろうか.
幸いなことに,みゆは魔法の力により字が書ける.
ウィルやスミいわく,相当下手な字らしいが.
するとしびれを切らしたのか,少年が向かいの席から立ち上がり,そばまでやって来た.
座ったままのみゆを抱きしめて,
「分かっている?」
そっとささやく.
「君は僕だけのものだよ.」
声に妙な色気を感じて,のぼせたように顔が熱くなる.
「離さない.君が今,誰のことを考えていても.」
切なくなるほどに,ぎゅっと抱きしめられている.
今,やらなくてはならないことが分かった.
署名することでも,王子とのいきさつを話すことでもない.
みゆは,少年の体を抱きしめ返した.
「私はウィルが好き.あなただけが好きなの.」
離れていて不安だったのは,少年も同じだったのだ.
忘れられているのではないか,嫌われたのではないかと,みゆが不安になったように.
「ライクシード殿下のことは,こんなお兄さんがいたら素敵だなと思っていた.」
みゆにとって彼は好ましい存在だったが,それはあくまでも友情だった.
「ごめんなさい,ウィルを不安にさせて.」
街でうわさを聞いて,少年はどれほど悲しい気持ちになったのだろう.
けれど少年は,みゆを首都神殿から助けてくれた.
「ミユちゃん,」
とまどった顔をする少年に,強引に口づける.
少年の驚きが,唇ごしに伝わった.
みゆもびっくりだ,自分からこんなことをするなんて.
少年の手が,みゆの後頭部に回る.
髪をくしゃりとつかんで,離れていた時間を埋めるように.
長いキスになった.
首都神殿から逃げた直後のキスが,短くあわただしいものだったのに対して.
唇が離れると,少年がとろけるようにほほ笑んでいる.
恥ずかしくなって,みゆは目をそらした.
直視できない,あまりに甘くて.
するとあごをつかまれて,再び唇が合わさった.
わだかまりが溶けていく.
優しい腕に抱かれて,みゆはすべてを少年に預けた.

深夜,街の明かりは消えている.
ただここだけが明るい城の中で,ライクシードは重いため息を吐いた.
「お前は部屋に帰れ.」
机の向かいに腰かける兄が言う.
「彼女が待っているのじゃないか?」
右手に持っていた首都の地図を,机の上に投げ出す.
いすの背にもたれて,兄は疲れたように目を閉じた.
ウィルについて弁明するために,カズリと両親は城にやって来た.
そしてその後,両親は帰ったが,彼女だけは残った.
婚約者であるライクシードの部屋に.
兄に押し切られるようにして,決めた婚約だった.
ライクシードは返事をせずに,机の上の書類を眺める.
目に付いた一枚には,カズリの家の使用人たちの証言が記されていた.
ウィルは黒髪黒目の,どちらかというと小柄な少年らしい.
愛想はよく,まじめに仕事をしていたという.
みゆがさらわれたと知らされたときから,バウスはリナーゼの門を閉じている.
そして兵士たちに,街中を捜索させている.
さらにサイザーの命を受けた神殿の兵士たちも,みゆを探している.
このまま門を開けずに捜索を続ければ,いつか彼女を捕まえられるだろう.
だが,
「いつまで門を閉ざすのですか?」
門は普段,夜間しか閉じていない.
この城下街は,人とものが出入りすることによって成り立っている.
首都の流通を止め続けることは不可能だった.
「明日いっぱいが限界だな.」
目をつむったままで,兄はつぶやく.
結界が壊れたときでさえ,三日間しか無理だった.
しかも門の周囲には人だかりができて,大変な騒ぎだった.
魔物たちが本当に襲ってきたらどうなるのか,想像すると恐ろしかった.
しかし切れた結界から入ってきたものは,言い伝えのとおりに魔物だったのだろうか.
兵士たちは捕まえるどころか,それの姿形を確かめることさえできなかった.
兄は呪われた王国には人間が住み,魔物はいないのではないかと話す.
ライクシードには理解できない.
カリヴァニア王国など,ただの伝説なのに.
本の中にしか存在しない絵空事に,ライクシードたちは振り回されている.
ふと思い出す.
みゆは図書館で,熱心に本を読んでいた.
そもそも彼女が積極的に行ったことは,読書だけだった.
彼女は館長のナールデンに,奇妙な質問をした.
「神様には,どうすれば会えるのですか?」
彼女のせりふを復唱する.
「はぁ?」
バウスは目をぱちぱちとさせた.
「お前,ばかだろ.」
はっきり言われて,ライクシードは微妙に傷ついた.
「どこでもいいから,好きなだけ祈りをささげろよ.」
「いえ,そうではなくて,ミユが,」
彼女の名前が出たとたん,兄は顔をしかめる.
「部屋に帰れ.」
有無を言わさぬ口調だった.
「カズリ殿に会って,忘れさせてもらえ.」
「兄さん.」
ライクシードとみゆは,周囲がうわさするような想い合う仲ではなかった.
けれどいつまでたっても,彼女の影が消えない.
守りたかったのに,守らせてくれなかった.
いや,彼女はそもそも守る必要はなかったのだが.
「今夜は,別の部屋で寝ます.」
「堅物だな.相手がいいと言っているんだ,女性に恥をかかせるな.」
軽い口調を装っているが,瞳にはライクシードを心配する光があった.
「だから部屋に帰れよ.」
「はい.」
ライクシードは従う.
兄は正しい.
いつでも,ライクシードよりも正しい.
みゆは警戒すべき相手だと,バウスは最初から主張していたではないか.
それに反発していたのは,ライクシードだ.
そして首都神殿で騒ぎを起こして,兄や国王である父に多大な迷惑をかけた.
ライクシードは兄に就寝のあいさつを告げて,カズリが待つ自室へ帰った.
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