水底呼声 -suitei kosei-

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  4−8  

ジェットコースターなんか目じゃないほどに,電車が揺れた.
――みゆ!
体が浮いてしまうほどの衝撃の中,隣の座席の姉がみゆを抱きしめる.
キィィィィ,と耳に痛い音が響いた.
それにかぶさるように,車内の人々が悲鳴を上げている.
窓の外に,横なぐりの雪が見える.
雲は重く垂れこめて,みゆは姉の腕の中で震えた.
電車が脱線してから停止するまで,どれだけの時間だったのか.
その間に何があったのか.
正確には思い出せない.
ただ怖かった,としか.
揺れが収まったとき,みゆは姉に守られていた.
彼女の腹に顔を押しつけられて,抱かれている.
――お姉ちゃん.
みゆは何も考えずに,かやを頼った.
姉の着ている花柄のシャツに,視界が覆われている.
あちらこちらから人のうめく声,子どもの泣く声,助けを呼ぶ声がした.
――あぁ,みゆ.痛いところはない? けがはしてない?
――多分,ないよ.ねぇ,何があったの?
顔を上げようとするが,頭を押さえつけられる.
――じっとしていなさい.きっとレスキュー隊の人が助けてくれるわ.
血のにおいがした.
生臭い嫌なにおいが,みゆを包んでいる.
――お姉ちゃん,けがをしている?
声が,自分のものではないように飛び跳ねた.
返事は返ってこない.
かやの腕から,力が抜けた.
何か大切なものが,取り返しのつかないものがこぼれ落ちていく.
「駄目よ!」
夢の外側にいるみゆは叫んだ.
顔を上げてはいけない.
見てはいけないし,認めてもいけない.
誰よりも美しかった姉が,あんなむごい姿になるなんて.
けれど中学生のみゆは,顔を上げた.
両目が大きく開き,唇がわなないて.
「あぁ…….」
十九歳のみゆは,顔を両手で覆う.
姉を助けることはできなかった.
血を流し倒れる姉に,みゆは何もできなかったのだ.
「私は無力だ.」
暗い部屋の中でつぶやく.
「何もできない.」
そんなみゆに,ひとつの国を救うことができるのだろうか.
すると暗がりから,言葉が返ってきた.
「結界を壊した人のせりふとは思えないなぁ.」
声は楽しそうに笑っている.
「小さな穴しか開いていなかったけれど,結界を直すのは大変だったよ.」
男性の声だ.
どこかで聞いたことがあるような.
「サイザー様と僕,セシリアやほかの神官や巫女たちの力を合わせても,三日もかかった.」
「ごめんなさい.」
わけが分からないままに,みゆは謝った.
「君を責めるつもりはない.実はお礼を言いに来たのさ.」
暗がりから進み出た男は,たけの長い黒いローブを着ている.
「君のおかげで,僕の息子が生きていることが分かった.」
黒髪,黒目の男だ.
くせのある髪は長く,肩まである.
「一人で首都神殿に乗りこんで来るとは,度胸があるね.」
顔立ちは柔和で,中性的な印象だった.
「本当はあの子の夢に入りたかったのだけど,あの子はすきがなくて近寄れなかった.」
「あなたは誰ですか?」
みゆはたずねる.
「前にも一度,私の夢に来ましたよね.」
神聖公国に来た日の夜に,彼の姿を夢うつつに見た.
あれは少年の成長した姿だと思いこんでいた.
「僕はルアン,大神殿に住む黒猫だよ.」
黒猫という単語に,驚きつつも納得する.
ウィルが黒猫なのだから,彼も黒猫でおかしくない.
「君は何を求めて,この国へ来たの?」
彼は興味深げに問いかけた.
「バウス王子の言うとおり,侵略戦争でも始めるのかい?」
「ちがいます.私はカリヴァニア王国について調べたいだけ,」
そのとき,こんこんと扉をノックする音が響く.
「ミユちゃん,起きているの?」
扉が,がちゃりと開いた.
少年がかざすろうそくの光によって,闇が引いていく.
みゆは,すぅっと目が覚めたように感じた.
「夕食のシチューができたよ.食欲はある?」
「うん.」
枕のそばに置いてある眼鏡をかけて,ピントの合った世界を取り戻す.
もちろん部屋には,みゆと少年しかいない.
夢を見ていた.
最初は列車事故の夢だったが,途中からはウィルに似た男性が登場した.
みゆは,少年に続いて部屋から出る.
せまい廊下をはさんで,扉が二つあった.
「右がスミの,左が僕の部屋だよ.」
黒の少年が説明する.
そして先ほどまでみゆが眠っていた部屋が,みゆの部屋らしい.
扉のほかには,下へ降りる階段があった.
「食堂は一階.足もとに気をつけてね.」
階段を降りる少年に,みゆはついていく.
古い家だからなのか,階段を一段ずつ降りるたびに,みしみしと木の音が鳴った.
だが,さすがというべきか,黒猫はまったく音をたてない.
体のしなやかさが,みゆとは格段にちがうのだろう.
一階には間仕切りはなく,広々としていた.
大きなテーブルがあり,そこに若草色の髪の少年がいる.
「スミ君!」
みゆは駆け寄って抱きついた.
「ミユさんが元気そうで安心しました.」
「それは私のせりふよ.けがはどうなの? ベッドで寝てなくて大丈夫なの?」
「はい.歩くこともできますよ.」
いすに座ったままで,少年はにっこりとほほ笑む.
こげ茶色の瞳には生気があり,みゆは心から安堵した.
「よかった.」
少年の頭をなでる.
すると,
「席についてよ,ミユちゃん.」
背後から,ウィルの不機嫌な声がした.
振り返ると,少年は台所へ行ってしまう.
そして鍋を持って帰ってきた.
テーブルには,深皿やスプーンなどが用意されている.
ウィルが鍋の中のシチューをよそうと,おいしそうなにおいがした.
黒の少年が着席して,暖かな食事が始まる.
みゆたちは食欲を満たしながら,別れていた間に何があったのか,たがいに教えあった.
少年たちは禁足の森を,魔法の力で兵士たちを幻惑して抜け出したらしい.
兵士たちはウィルたちを捕まえるどころか,姿を見ることさえできなかった.
当然,バウスが見せた血染めの布は,はったりだったのだ.
少年たちは歩いて,――正確にはウィルがスミをおぶって,首都リナーゼへたどり着く.
リナーゼの位置は,兵士たちがひんぱんに森と街を行き来したために分かったらしい.
食事が終わると,黒の少年は懐から一枚の書類を取り出した.
「ミユちゃん,署名して.」
手渡された書類に,みゆは目を通す.
――ライクシード殿下のおそばに参りませんことを,私は約束いたします.
一瞬,何のことか分からなかった.
しかし理解したとたんに,ぎょっとする.
カズリがみゆに渡すつもりだった契約書だ.
紙面から目を上げると,少年は怖いぐらいに,にこにこしている.
「これは,」
「あっ,えぇっと,俺!」
みゆのせりふを,スミがさえぎった.
「部屋に戻ります.食べたら眠くなりました.」
わざとらしい明るい声を出して,ゆっくりといすから立ち上がる.
階段まで歩いて行って,一段ずつ慎重に登り始めた.
スミの後ろ姿を見守ってから,みゆはウィルに視線を戻す.
少年は笑顔を張りつかせていた.
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