水底呼声 -suitei kosei-

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  4−6  

サイザーとバウスが去ってからも,みゆは部屋に閉じこめられ続けた.
「ウィル……,」
ベッドに倒れ伏して,つぶやく.
「会いたいよ.」
黒の少年の笑顔が見たい.
スミの明るい声が聞きたい.
みゆは一日の感覚を失っていた.
窓がふさがれて日の光が入らず,今が昼なのか夜なのか分からない.
生活リズムが狂ってしまい,眠りは浅く途切れがちだ.
食欲はなくなり,食事を残すことが多くなった.
ふらふらしているみゆに,兵士たちは心配そうな顔をするのだが,話しかけてはくれない.
いつかウィルが助けてくれるという希望がなければ,みゆはやけを起こして暴れていただろう.
何日間も放置されて,みゆの精神は追いつめられていた.
そのとき,扉から話し声が流れてくる.
みゆは,のっそりと起き上がった.
ひさびさに,自分以外の人間の声だ.
しばらくすると,派手で目に痛い色のドレスを着た女性が入ってくる.
顔の化粧も濃く,ドレスの色とけんかしているようだ.
「誰でしゅか?」
情けないことに,ろれつが回らない.
「ひどい顔色ね.」
女性はみゆの顔を見て,素直に驚いていた.
彼女は誰だろうか.
会った覚えはあるのだが,集中力が続かずに記憶をたどれない.
「私はカズリよ.おひさしぶりね,ミユさん.」
あぁ,と思い出す.
ライクシードとのことを誤解して,みゆのほおをぶった女性だ.
彼女はみゆの隣に,つまりベッドに腰かける.
「私,ライクシード殿下との婚約が決まったの.」
得意げにほほ笑む.
「だから殿下のことは,あきらめてちょうだい.」
「はい.」
みゆは承諾した.
「え? 本当に?」
カズリは意表をつかれたように,目をぱちぱちさせる.
「ご婚約,おめでとうございます.」
みゆが言うと,ほっとした表情になった.
「ありがとう.話が早くて助かるわ.」
親しげに,みゆの両手を握る.
「それから,あなたに署名してほしい書類があるの.」
「署名ですか?」
「二度とライクシード殿下に近づきませんと約束してね.」
みゆはずっこけそうになった.
何の冗談かと思ったが,カズリはまじめそのものである.
「正式な契約書を用意したわ.――入ってきて,ウィル.」
彼女は,扉の方に呼びかけた.
みゆは口をぽかんと開ける.
扉を開けて部屋に入ってきたのは,黒髪黒目の少年.
契約書の入っているであろう筒を持って,にっこりとほほ笑んだ.
「迎えに来たよ,ミユちゃん.」
ぱぁんと風船が破裂するような音が響く!
「封じられたる部屋のかぎは,神の御手にあり,」
ついで,少年の朗々たる祈りの声.
「ウィル!」
みゆは無我夢中で突進した.
「開かれた世界は,彼らの知るところにない.」
少年の腕が受け止める.
「何をやっているのよ?」
しっかりと抱き合えば,カズリのろうばいする声が背中を打った.
「たたえよ,神の名を.恐れよ,神の怒りを.」
「何ごとだ!?」
見張りの兵士たちが,部屋に駆けこんできて,
「我は,神の肉であることを誓約す!」
いともたやすく,魔法の風に吹き飛ばされる.
痛快な気分だ.
みゆはずっと,彼らに拘束されていたのだから.
少年の顔を見ると,ウィルはくすりと笑んだ.
「逃げるよ.」
「うん.」
うなずいた瞬間,足もとの床が消える.
背筋がぞっとするような浮遊感.
「逃がすな!」
兵士たちの声だけが追ってくる.
みゆは悲鳴を上げて,深い落とし穴にのみこまれた.
落ちて,落ちて,落ちきった先は柔らかいベッドの上だった.
あたりを見回すと知らない部屋の中であり,ウィルがそばにいる.
「ここ,どこ?」
ベッドしか家具のない部屋だった.
壁全体が薄汚れていて,窓のガラスもあまりきれいではない.
「リナーゼの貧民街だよ.この家は僕が買ったの.」
「貧民街? 買った?」
まさか住宅ローンを組んで?
「カリヴァニア王国の金貨だったのに,貧民街はいい加減だね.」
少年はみゆを抱いて,くすくすと笑う.
少年の体温を感じながら,みゆは首都神殿から逃げ出せたことを実感した.
太陽の光が,窓から降り注いでいる.
兵士たちの監視の目がない.
暗くじめじめとした孤独な部屋から,みゆは開放されたのだ.
うれしくて,安心して,懐かしくて,涙がこぼれる.
静かに泣いていると,ウィルがほおの涙をぬぐった.
「遅くなってごめんね.」
みゆは首を振る.
「会いたかった.」
「僕も.」
性急な口づけを受け入れる.
もっとキスしてほしいと,少年の首に腕を回した.
けれどウィルは,そっと体を離す.
「顔色が悪い.」
心配そうに顔をくもらせていた.
「食事はもらえたの?」
みゆのほおを両手で包む.
「うん.でも,あまり食べてない.」
黒の瞳が何も漏らすまいと,じっと見つめていた.
「暴力は受けた?」
硬い声で問いかける.
みゆはすぐさま,受けてないと否定する.
ウィルがひどく心配していたことが,今のせりふで分かった.
「よかった.」
少年は目もとを緩める.
みゆを改めて抱き寄せて,
「やっと君を取り戻した.」
深く息を吐いた.
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