水底呼声 -suitei kosei-

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  3−9  

みゆは足早に街を歩く.
図書館までの道は,しっかりと覚えていた.
目印の金物屋を見つけて,大通りから細い路地へ入ろうとしたとき,
「ミユ!」
呼び止められた.
振り返ると,ライクシードが走ってやって来る.
しかも,周囲の人々の注目を集めながら.
みゆはどうすることもできずに立ちつくした.
なんて目立つ王子なのだろう.
「すまない.」
息を切らせて,ライクシードは開口一番に謝った.
「カズリ殿が,君にひどいことをした.」
みゆは意識して,優しくほほ笑む.
「殿下が謝ることではありません.」
彼は人がよすぎる.
だから,あのような女性を寄せつけてしまうのかもしれない.
「けれど,」
ライクシードは,みゆのたたかれたほおに手を伸ばした.
みゆはそっと,彼の手を払いのける.
――昨日,殿下とリナーゼの街を歩いていましたよね.すでに城でも,うわさになっていますよ.
カズリはきっと,うわさを聞いたのだろう.
みゆを打った彼女の目は,怒りと悲しみに満ちていた.
「私は殿下の恋人だと,城のメイドたちに勘違いされています.」
ライクシードは不思議そうに,目をぱちぱちさせる.
「恋人?」
そして恥じたように,ほおを赤く染めた.
「そうです.どうか皆の誤解を解いてください.カズリさんも同じ勘違いをしています.」
ライクシードが弁明してくれれば,もはやカズリに攻撃されることはない.
「それでは,私は図書館へ行きますので.」
話を切り上げて,みゆは路地の方へ足を向けた.
これ以上王子と街中にいると,うわさがさらにひどくなる.
するとライクシードは,さりげなくついてきた.
「もう読み終わったのかい?」
「はい,だいたいは.」
まさかついてくるなと言うわけにいかず,あいまいな返事をする.
カズリの気持ちが,――好感の持てない女性ではあるが,少しだけ分かる.
みゆだって,ウィルがほかの女性の後を追いかけていたら,ものすごくショックだ.
彼女のように取り乱してしまうのかもしれない.
――ライクシード殿下は誰にでも優しいのよ.
勝手なお願いばかりして,迷惑ばかりかけて,しかも自分から離れて.
少年がみゆに愛想をつかしても,ほかの女性に目移りしても,責められないのかもしれない.
今ごろ,みゆのことなど忘れて……,
とたんにみゆは,自分のほおを思い切りたたきたい衝動に駆られた.
ウィルのことを疑うなんて!
自分に対する怒りで,足がどんどん速くなる.
図書館を行き過ぎようとしたところをライクシードに止められて,やっと我に返った.

「やぁ,いらっしゃい.」
図書館に入るとすぐに,館長のナールデンに出会えた.
彼の気負わないほほ笑みに,みゆはほっと心が休まる.
もしもライクシードがいなければ,先ほどのカズリのことを話してなぐさめてもらいたかった.
彼とあいさつを交わして,みゆはライクシードとともに本棚へ向かう.
棚に並べられた本の背表紙をざっと見渡して,カリヴァニア王国の文字を探した.
だが見つからずに,隣の本棚へ行く.
そこでも発見できず,本棚から本棚へとさすらった.
みゆは,とりあえず目の前にある地理の本を取る.
軽く流し読みするが,カリヴァニア王国に関する記述はない.
本を棚に戻して,隣の本を取る.
そんな風にして四冊ほど読んだ後で,ふと心づいて手を止めた.
書棚の本を眺めつつ,メモを取っている館長のそばに寄る.
「館長様,質問をしてもいいですか?」
「何だい?」
彼ならば,みゆの求める答をくれるのかもしれない.
「神様には,どうすれば会えるのですか?」
ナールデンは驚いたように,目を見張った.
「神殿へ行けば会えるのですか? 聖女ならば会えるのですか?」
ライクシードも,とまどい顔だ.
みゆの質問は神聖公国では,すっとんきょうなものかもしれない.
「神様とは,どのような存在なのですか?」
しかしナールデンは優しく目を細めて,ペンとメモの束を書棚に置いた.
しわのある両手で,みゆの手を取る.
「ミユ,目を閉じてごらん.」
「え? でも…….」
みゆがちゅうちょしていると,彼は少しだけ手を握る力を強めた.
「怖いのならば,ずっと手をつないであげるから.」
図星をさされて,かっと顔が熱くなる.
まるで子どものようだ,目を閉じることができないなんて.
「お願いします.」
素直に甘えることにして,目をつむった.
「何か見えるかい?」
目をつむっているので,何も見えない.
「真っ暗です.」
正直に答えると,老人の楽しそうな笑い声が耳に届いた.
「けれど君は,一人ではない.」
館長が手を握ってくれているから.
そして見えないが,ライクシードもそばに立っている.
いや,おそらくそのような意味ではない.
暗闇の中,一人の少年が産まれた.
甘いささやきも腕のぬくもりも,たやすく思い出せる.
みゆを包みこむ,暖かな海の声.
――君は僕のもの.
そう,みゆの心はいつも…….
みゆはゆっくりと目を開いた.
館長は淡くほほ笑みながら,みゆの顔を見つめている.
「神に会えただろう?」
「確かに会えましたが,」
みゆにとってウィルは,心の支えとも言うべき絶対的な存在だ.
しかし今,カリヴァニア王国を救うために会わなくてはならない神は,そういうものではない.
「私はそういう神様ではなく,ちゃんとお話できる神様に会いたいのです.」
ナールデンは,みゆの手をそっと離す.
「神は,私たち人の触れられるものではないよ.」
不満が顔に出たのだろう,彼はよりいっそう優しく笑った.
「聖女様でも私のような老人でも,神の恵みを感じるのみさ.」
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