水底呼声 -suitei kosei-

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  3−8  

神暦0年,神が大地に降り立つ.
神は,獣のような暮らしをしていた人間に,知恵を授けた.
身を守る家を,身を包む衣を,心を表す言葉を与えた.
神の結界の中で,人間は神に導かれて,美しい世界を作り上げた.
本の紙面から顔を上げて,みゆははぁとため息を吐く.
昨日借りた本は,一事が万事この調子だ.
典型的日本人の無宗教であるみゆには,受け入れがたい世界である.
神聖公国は結界に覆われているため,外国との戦争は存在しない.
しかし,権力争いなどの内乱はあるらしい.
もっとも大きな内乱により,神聖公国では王朝が変わった.
現在の王朝は,二番目の王朝である.
初めの王朝を建てたのはユリシーズという男で,彼は神から国の統治を任されたという.
ライクシードに教わったことだが,今は神暦918年である.
彼の父であるコウトーラは,二番目の王朝の十三代目の国王だ.
本によるとコウトーラは神の威光をたたえるために,大神殿の修繕工事を行っている.
神聖公国の歴史は,建国から現代に至るまで神のことばかりだ.
カリヴァニア王国のことは,まったく書かれていない.
みゆは巻末の大陸地図を,じっと眺める.
ここにもカリヴァニア王国はない.
北に山脈,残り三方を海に囲まれた半島も見当たらなかった.
みゆは,ぱたんと本を閉じる.
別の本を借りに,図書館へ行こうかな.
館長様にも会いたいし.
ソファーに座ったままで,みゆはうーんと伸びをした.
するとテーブルの上に,暖かい紅茶が置かれる.
そばに控えていたメイドのディアナだ.
「ありがとう.」
礼を述べると,彼女はうれしそうにほほ笑む.
「お勉強は,はかどりますか?」
「残念ながら.」
みゆは首を振って,これを飲んだら図書館へ行くねと告げた.
「ライクシード殿下とですか?」
期待に,ディアナの目が輝く.
みゆはメイドたちに,王子の恋人だと思われているのだ.
「私は,殿下の恋人ではないわよ.」
苦笑して言う.
「まだ公ではないだけでしょう?」
ディアナは,みゆのせりふを本気に取らない.
「殿下が城に女性の方を泊めるのは,初めてのことです.私たちメイドは,本当にあなたを歓迎しているのですよ.」
それはセシリアに頼まれたからなのだが.
しかしライクシードが城で少女の名を出さないので,みゆも話すわけにはいかない.
みゆには,みずからをにせものと称する少女の,この国での立場が分からないのだ.
「今,お勉強なさっているのは,殿下の妻になるためでしょう?」
「いいえ,ちがうわ.」
はっきりと否定する.
「でも昨日,殿下とリナーゼの街を歩いていましたよね.」
ディアナは,にんまりと笑う.
「すでに城でも,うわさになっていますよ.」
するといきなり,部屋の外から食器の割れる音がした.
続いて,女性たちの言い争う声.
みゆとディアナがとまどっていると,扉が壊れそうな勢いで開かれた.
「カズリ様,お待ちください!」
「離しなさい,メイドのくせに!」
現れたのは,見知らぬ女性とメイドのエル.
エルは女性の腰に抱きついて,彼女の突進を止めようとしている.
エルの足もとには,割れた皿と焼き菓子が散らばっていた.
見知らぬ女性,――カズリはみゆをにらみつける.
「あなた,誰!? どこの家の者なの!?」
鋭い調子で詰問するが,それはみゆの方が聞きたい.
「私は古藤みゆです.あなたはどなたですか,私に何のご用でしょうか?」
カズリは派手なドレスを着ていて,なかなかに濃い化粧を顔に施している.
彼女はずかずかと部屋に入りこんで,みゆの前まで来ると腕を振り上げた.
ぱぁん,と破裂音!
唐突で,しかも強烈な平手打ちをまともに受けて,みゆはソファーに倒れた.
「やめてください!」
再び腕を振り上げるカズリを,エルが後ろから,はがいじめにする.
「ミユ様,大丈夫ですか?」
みゆはディアナに,助け起こされた.
ほおが痛いよりも先に,びっくりして口がきけない.
なぐられたのは,ほとんど生まれて初めてだった.
「いい気にならないことね,ライクシード殿下は誰にでも優しいのよ.」
みゆはカズリの顔を見上げる.
彼女の顔は優越感に満ちていると思いきや,ひがみやねたみの感情に支配されていた.
「私だって街を歩いたぐらい,」
「カズリ殿! ミユ!」
そのとき開いたままの扉から,あわてた顔のライクシードが駆けこんでくる.
王子の登場に,カズリは大声を上げて泣き始めた.
「この人が私を侮辱したのです!」
と,みゆを指す.
「薄汚い言葉で,私の家族をののしりました.それからライクシード殿下のことも!」
「ちがいます!」
否定の言葉は,ディアナとエルの口から放たれた.
ライクシードはとまどったように,みゆとカズリの顔を見比べる.
「カズリ殿,とにかく落ちついてくれないか.」
彼女は見せつけるように,王子に抱きついた.
「落ちつけません.私はとても傷つきました!」
わめきたてるカズリに,ライクシードは完全に振り回されている.
メイドたちがみゆを歓迎する理由が,みゆには分かった.
カズリは突然やって来て,一人で大騒ぎしている.
エルが作ったであろう菓子は踏みにじられて,みゆはほおをたたかれて.
ディアナとエルはぶぜんとした表情で,カズリを見ていた.
みゆはソファーから,すっくと立ち上がる.
やられっぱなしは,趣味ではない.
「カズリさん.」
呼びかけに彼女が顔を向けたとたん,力いっぱいほおをぶつ!
ライクシードがぎょっとして,倒れるカズリの体を支えた.
カズリは「信じられない.」とつぶやく.
だが,すぐに怒りに顔を赤くして,
「よくも私をぶったわね!」
みゆの体をどんと押した.
みゆはしりもちをついたが,負けてたまるかと立ち上がる.
「あ,」
けれどカズリは王子の顔を見て,みゆを押した両手をあわてて隠した.
女同士の戦いに,ライクシードはぽかんとしている.
つまらないけんかを買ってしまったと,みゆの頭は一気に冷えた.
「私は図書館へ行くから.」
王子と同じく目を丸くしているメイドたちに向かって言う.
カリヴァニア王国のことを考えれば,カズリに構っている場合ではない.
ライクシードの脇をすり抜けて,みゆは部屋から出て行った.
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