水底呼声 -suitei kosei-

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  3−7  

ひさびさにその少年の姿を見たとき,カイルは奇妙な懐かしさに襲われた.
少しくせのある黒い髪,闇夜のように黒い瞳.
小柄な体を,黒い服が包む.
肌が日に焼けているところを除けば,あの子にそっくりだった.
いや,似ていて当然だろう.
――お願いだ,カイル.
牢の中から伸ばされた手.
――助けてくれ.どうか殺さないでくれ.
涙ながら訴えた黒猫の少年.
「ひさしぶり,カイル師匠.」
森の中で,悪びれなくウィルは笑った.
スミは警戒し,顔がこわばっている.
「ひさしぶりだ,ウィル,スミ.」
過去の幻想から現実に立ち帰り,カイルは答えた.
いけにえのみゆの行動は,予想外に過ぎた.
彼女は,捨て駒として殺されるはずだったスミを救い,みずからは神聖公国へ行った.
神に呪われたカリヴァニア王国を救うために.
部下から報告を受ける国王は,さぞかし驚くだろう.
人のいい彼のことだから,みゆに対して感謝と謝罪の念を抱くのかもしれない.
だが.
「お前たちは,王国の裏切り者だ.」
神聖公国へ行ったいけにえには,どう対処すべきかまだ決まってないが.
ウィルとスミの処分は,すでにカイルの中で決定されている.
ウィルは,生かしすぎるほどに生かした.
スミはもとから,きまぐれで拾った子ども.
もう十分に生きただろう,二人とも.
カイルは大きく一歩を踏みこんだ.
ウィルは,にこにこ笑ったままで構えない.
スミはおびえた目をして,剣を抜いた.
「裏切り者には,」
「死を――.」
カイルの続きの言葉を奪って,黒猫の少年がにたっと口もとをつり上げる.
とたんに,カイルの足もとの地面が崩れた!
黒い土が黄色の砂に変わり,流砂になってカイルをのみこむ.
「不浄なる地に降り立つ,我らが神の娘.」
沈む体を冷静に眺めて,カイルは祈りの言葉を口にした.
「神よ.小さき我らを哀れに思うならば,」
五つのナイフが,正確に飛んで来る.
祈りによる奇跡もナイフの技も,教えたのはカイルだ.
「光によって,我らを導きたまえ!」

揺れ動く馬車の中で,みゆはふと目を覚ます.
どうやら居眠りをしていたらしい.
向かいの席では,ライクシードが窓から外の景色をぼんやり眺めていた.
みゆもならって,窓をのぞく.
真昼の街なみは,見ているだけで気持ちを優しいものにさせる.
手をつないで歩く恋人たち,野菜の入った袋を持つ主婦,待ちぼうけをする子ども.
平和な国の,平和なひととき.
――ミユ,あなたの力が必要なの.どうか聖女になって,この国を救って.
しばらくすると,ライクシードが声をかけてきた.
「すまないね,セシリアがとんでもないことを頼んで.」
彼はすまなさそうにほほ笑む.
「いいえ.」
ライクシードはみゆの前で謝ってばかりいる.
メイドたちが騒がしくしてすまない,兄が失礼なことを言ってすまない,セシリアがとんでもないことを頼んですまないと.
「かばっていただいて,ありがとうございました.」
みゆは深々と頭を下げる.
神聖公国で最初に出会ったのが,この人でよかった.
セシリアだけならば,運命だとごり押しされて,聖女に祭り上げられただろう.
バウスならば,怪しいやつだととがめられて,牢に入れられただろう.
「どうか謝らないでください.殿下は本当によくしてくれています.」
ライクシードは,自分自身を過小評価しているのかもしれない.
兄バウスに対する劣等感ゆえに.
彼は照れたように,目をそらした.
「首都の街を案内するよ.」
強引に話題を変える.
「どこか行きたいところや,見たいものはないかい?」
王子の横顔を見つめながら,みゆは考えた.
「図書館へ行きたいです.神聖公国のことを勉強したいので.」
カリヴァニア王国のこと,聖女のこと,神のこと.
調べたいことは,たくさんある.
ライクシードはみゆの答に驚いたようだったが,笑って承諾してくれた.
「分かった.国立図書館へ行こう.」

国立図書館は,大きな柱がいくつも立ち並ぶ,重厚な石造りの建物だった.
古代ギリシャの神殿に似た外観を持っている.
ライクシードが,この図書館は国で一番の蔵書数を誇ると説明した.
また身分や貧富にかかわらず,国民皆が無料で利用できるという.
館内は涼しく,ほどほどに人が多い.
みゆはずんずんと奥へ突き進んだ.
しかし本棚に収められた本は多く,何から手に取ろうか悩んでしまう.
するとライクシードが,
「この本なら読みやすいと思うよ.」
本棚から一冊の歴史本を抜き取って,勧めてくれた.
「ありがとうございます.」
本を受け取って,ページをぱらぱらとめくる.
本は薄く文章は平易であり,確かにこれならすぐに読めそうだ.
さらに館内を探索していると,一人の老人と出会う.
老人は脇に古い巻物を抱えて,気軽に王子に話しかけてきた.
「殿下,今日は何のご用でしょうか?」
ライクシードがみゆに,彼は図書館館長のナールデンだと紹介する.
そしてナールデンには,みゆを遠い場所からの客人だと紹介した.
「ミユ? 珍しい名前だね.」
「よく言われます.私の姉の名前も変わっていて,“かや”というのです.」
「かわいらしい名前だ,あなたもあなたのお姉さんも.」
ナールデンは優しくほほ笑む.
みゆは館長じきじきに本の貸し出し許可をもらい,ライクシードとともに図書館を出た.
馬車に先に帰ってもらい,みゆは王子に誘われるままに,散歩がてら歩いて城まで帰る.
リナーゼの街はにぎやかだ.
大通りでは老若男女がいそがしく行きかい,油断すると人ごみに流されてしまう.
噴水のある広場では,屋台がたくさん立っていた.
お昼どきなので,おいしそうなにおいがあちらこちらでする.
ライクシードに連れられて,みゆはさまざまな屋台を見て回った.
美しい布が何枚も並べられた店に寄ると,
「細かい刺しゅうが入っているよ! 手にとって見てごらん!」
と,どなり声で勧められる.
そそくさと逃げようとすると突然,隣の屋台で調理前の魚がぴょんと跳ねる.
驚いて悲鳴を上げれば,ライクシードが楽しそうに笑った.
「首都近郊の川で捕れる魚の串焼きだ.食べるかい?」
「はい,いただきます.」
みゆは気づかなかったが,ライクシードとともにいる彼女は,ものすごく衆目を集めていた.
王子の顔は,街の住民に知られている.
特に若い女性たちにとって,ライクシードはあこがれの王子様だ.
けれど彼一人だけのお忍びならば,人々はここまで注目しなかった.
気さくな王子は,よく街に出る.
剣の腕が立つので,護衛のための騎士を引き連れない.
だが今回,彼は女連れである.
ライクシードの隣に立つ娘は,つやのある長い黒髪が印象的だ.
庶民には買えない高級品である眼鏡をかけて,ひと目で上流階級の娘だと分かる.
「これはお似合いだ.」
「殿下には,彼女の方がふさわしい.」
「メイデン家のカズリ様よりも…….」
家の権力を利用して,恋敵や恋敵と想定される女性たちをけり落とすあの女性よりも.
首都に住む者なら,誰でも知っているうわさ話だ.
カズリが,王子に近づく女性や王宮の見目うるわしいメイドに,影で嫌がらせをしていることは.
そして困ったことに,ライクシードは彼女の行動に気づいておらず,バウスは頓着しない.
言いかえればカズリは,その程度の小さな悪事しかやらない.
しかし小さな悪事とは言っても,城で働く者には大迷惑だ.
こそこそとささやき交わされる声に囲まれて,みゆは焼き魚にかぶりついて,「おいしいですね.」と笑っていた.
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