水底呼声 -suitei kosei-

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  3−1  

小さな荷を背負い,手にたいまつを持つ.
洞くつの中を,みゆは一人で歩き続けた.
洞くつは平坦な一本道で,迷うことはない.
ふと,あることに気づいて,みゆは足を止めた.
洞くつの中なのに,あたりが明るすぎる.
たいまつの光の届く範囲など限られているのに,みゆのまわりは真っ暗ではない.
少々薄暗い程度で,足もとがしっかり見えて歩きやすい.
みゆは周囲を見回したが,光源らしいものはない.
土の壁が延々と続くのみだ.
なのに,なぜ?
みゆは思考を振り払って,再び歩き始めた.
この洞くつは,常識では考えられない不思議の洞くつ.
明かりの不思議が増えたぐらい,たいしたことではない.
またしばらく歩くと,道は緩やかに曲がり,その先に出口が見えた.
緑色の世界,どうやら森の中らしい.
だが,山ひとつ分の距離にしては短すぎる.
みゆの感覚では,一時間も歩いていないはずだ.
いや,もしかすると三十分もたっていないのかもしれない.
出口を前にして,立ちつくす.
明るさの不思議に,距離の不思議に,カリヴァニア王国からは入れない不思議.
心の準備ができる前に,神聖公国に着いてしまった.
――僕は,赤ん坊のときにその洞くつを通ったよ.
みゆは,ウィルの言葉を思い出した.
赤ん坊を連れた人間が通れた道なのだ,平易な道に決まっている.
きっとカイルがウィルを連れて通ったときも,このように簡単にくぐり抜けたのだろう.
覚悟を決めて,みゆは歩き出した.
別れを告げた少年のことを想うと,心に光の翼が産まれる.
どこまでも飛んでいける強い翼が.
「う,わ……,」
神の国に足を踏み入れた瞬間,声が漏れた.
土の壁が,緑樹の壁に変化する.
樹木の枝や葉が押し迫って,洞くつから抜け出たのにあまり開放感を感じない.
森の様子は,カリヴァニア王国と異ならない.
そのとき,ひゅうと冷たい風が吹いて,みゆはぶるりと震える.
ちがいは気温にあった.
カリヴァニア王国の森は蒸し暑かったのに対して,こちらはずいぶんと肌寒い.
世界の果ての山を越えたからだろうか,それとも日が暮れたからだろうか.
みゆは,くるりと振り返る.
とたんに,息をのんだ.
洞くつの入り口の両脇に,二体のモンスターがいる.
翼を背負った四本足の獣の石像だ.
前足を高々とかかげ,つま先には鋭い爪.
ぎょろりとした目をして,くちばしを大きく開いている.
みゆはたいまつを掲げて,おそるおそる近づいた.
このまがまがしいモンスターは,洞くつの先にあるカリヴァニア王国を象徴しているのだろうか.
そっと手を伸ばし,触れようとしたとき,
「動くな.」
首筋に当てられた金属の感触に,みゆは「ひっ,」と小さな悲鳴を上げた.
「君は何者だ? どこから,この森に入った?」
若い男の声が,背中を打つ.
「それは魔物の像だ.君のような若い娘が触っていいものじゃない.」
恐ろしくて,指の一本も動かせない.
刃物を突きつけられたのは,生まれて初めてだ.
「何が目的で,ここにいる?」
正直に,カリヴァニア王国から来たと言っていいのだろうか.
凶器を首に感じながら,みゆは考えた.
しかしカリヴァニア王国の民は罪を犯して,神聖公国から追放されたはず.
ならば,隠した方がいい.
せめて,王国の民がどのように扱われるのか分かるまでは.
「なぜ黙っている,答えろ!」
鋭い声に,みゆは震え上がった.
だが同時に,怒りもわき起こる.
こんなにも脅さなくていいではないか.
「私は武器を持っていません.」
たいまつしか持っていないことを示すために,みゆは両手を上げた.
「ご覧のとおり,非力な女性です.」
やせているみゆを見て,筋力たくましいと思う者はいないだろう.
自慢できるほどに,みゆは見た目も中身も非力だ.
「あなたを害することはできません.――何を恐れて,私に剣を向けるのですか?」
男のためらう気配が感じられた.
自分の心臓の音を聞きながら,みゆは辛抱強く待つ.
しばらくすると,
「すまない,私は騎士失格だな.」
冷たい刃が遠ざかる.
その場で座りこみたいほどに,みゆは安堵した.
「私の名前はライクシードだ.君の名前を聞いてもいいだろうか?」
けれど気を引きしめて,振り返る.
長い銀の髪をした,優美な男性が立っていた.
印象的な青の瞳に,理性の光が宿っている.
よろいは着けておらず,柔らかそうな仕立てのいい服を着ていた.
「君を傷つけることはしない,君が私の大切な人たちを傷つけないかぎり.」
彼は友好的な笑みを見せた.
剣はすでに,腰のさやに収まっている.
ひとつ息を吸って,みゆは名乗った.
「私の名前は古藤みゆです.」
案の定,ライクシードは不思議そうな顔をする.
きっと聞き慣れない名前なのだろう.
「私は日本という国から,やってまいりました.」
「ニホン? ――すまない,もう一度言ってくれないか?」
まゆを寄せて,彼は問い返した.
「日本です.私は日本の,」
しゃべりながら,みゆは自分の設定を作り出す.
「駅のホームから,ここに来ました.」
私は,地球からこの世界へやって来たばかり.
駅のホームで光に導かれて,この森に来たばかりということにしよう.
「エキノホーム?」
ライクシードの顔は,どんどんといぶかしげになる.
「ここはどこですか?」
何も分からないふりをして,みゆは強くたずねた.
「私は駅にいたはずなのに,どうしてこんな場所にいるのでしょう!?」
「待ってくれ.」
彼はとまどって,みゆをどう扱っていいのか分からない様子だ.
「失礼だが,君の言っていることが理解できない.」
「私には分かるわ,ライク兄さま.」
すると少女の声が,割って入ってきた.
ライクシードの肩越し,深い森の中から,白い服を着た少女が現れる.
「彼女はこの世界の人間じゃない.」
長い銀の髪を揺らし,青い瞳の少女がしゃべる.
「ちがう世界から,今,ここに降りてきたの.」
月下にたたずむ精霊のような,ほっそりとした立ち姿.
同性であるみゆでさえ,目が離せない.
こんなにも美しい少女が存在するなんて…….
少女にみとれるみゆに,ライクシードがけげんな視線を送る.
確かにここは神のいる国かもしれないと,みゆは思った.
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