水底呼声 -suitei kosei-

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  2−11  

「話は終わりましたか?」
いつまで泣いている少年を抱きしめ続けたのか.
背中から声をかけられて,みゆは振り返った.
薄暗くなった森の中で,若草色の髪の少年が立っている.
「待たせて,ごめんね.スミ君.」
土の地面に座りこんだままで,みゆはほほ笑んだ.
「ありがとう,二人だけにしてくれて.」
ウィルは無言で,顔を上げなかった.
「いいえ.」
視線を少しさまよわせてから,スミは単刀直入にたずねる.
「行くのですか?」
みゆはうなずいた.
もう決めた,一人で行くと.
「あなたならば,そうすると思っていました.」
スミは寂しげに笑った.
「あなたは守る人だから.俺の母親とはちがう,尊い志を持った女性だから.」
「スミ君?」
過剰な賛辞に,みゆはとまどう.
「ミユさんなら,どんな状況になっても自分の子どもを捨てないでしょう?」
少年の目は,すがっていた.
肯定してくれ,肯定してほしい,あなたならば肯定するはずだと.
「ごめん,分からないよ.」
みゆは首を振った.
子どもを産んだことも育てたこともないのに,確かなことは約束できない.
「王国を救ってください.」
少年の表情は満足げだった.
「荷物をまとめておきました.」
一人分の荷物と,洞くつを歩くためのたいまつを差し出す.
みゆが受け取ろうと身動きをすると,ウィルはやっとみゆから離れた.
片手で,涙と鼻水をぬぐっている.
「ありがとう,スミ君.」
荷物とたいまつを受け取ってから,みゆは恋人の方へ向き直った.
「ウィル,」
そうやって泣いていると,本当に子どものようだ.
涙を隠さずに,ありのままに悲しさを見せて.
「愛している.」
少年にだけ聞こえるように,そっと耳もとでささやく.
すんなりと言葉が出てきた.
ウィルは驚いたように,黒の瞳をまばたかせる.
「初めて聞いた.」
厚い雲間から広がる晴れ間のように,少年は笑った.
目じりに涙を残す,幼い顔立ちで.
「覚えていてね.」
私の心は,あなただけのものだと.
ぎゅっと強く少年を抱きしめて,みゆは精いっぱいの想いを伝えた.
そして未練を断ち切り,すっくと立ち上がる.
できるだけ明るい笑顔を作って,
「いってきます!」
元気よく手を振って,洞くつに向かって歩き出した.
振り返らない.
振り返れば,進めなくなるから.
今だって,一歩一歩進むごとに後悔が募る.
もっときっちりと別れの言葉を告げるべきではなかったのか,今までありがとうと礼を述べるべきではなかったのかと.
けれど,それらは.
それらはすべて,出発を先延ばしにしたい自分の弱さだから.

洞くつの奥へ消えていく彼女の後姿を,ウィルはスミとともに見送った.
あまりにもあっけなく,別れは訪れてしまった.
――ウィルの故郷へ,神に会いに行こう.
――君が望むならば.
そう彼女に答えながら,ウィルは越境は不可能だと思っていたのかもしれない.
みゆは永遠にカリヴァニア王国内をさまよい続けるだろうと,高をくくっていた.
終わりのときに,暗い海の底へゆくのだろうと.
ウィルは死んでも構わなかった.
みゆさえ,そばにいてくれるのならば.
彼女はいつも死の影から抜け出す.
スミの監視を逃れいけにえとしてささげられず,ウィルの手を逃れ自分の足で歩き出す.
――四年後もそれからもずっと,ウィルと一緒にいるために行くの.
ウィルは無造作に,体をくるりと反転させた.
ひゅっと鋭い音を立てて,ナイフを飛ばす.
ナイフの先は,大きな木にくくられた男たち.
男たちは,死を覚悟したように顔をこわばらせる.
だがねらいは,彼らではなく彼らを拘束している縄だ.
「なぜですか?」
縄が解かれたにもかかわらず,彼らは逃げずに問いかけた.

先ほどからの光景はすべて,彼らには信じ難いものだった.
いけにえの娘は王国を救うと言い,恋人のウィルを置いて一人で行ってしまった.
ウィルはだだをこねる子どものように泣きわめき,冷酷な黒猫の見る影もない.
そしてスミは,すっかりといけにえの娘に臣従してしまっている.
たった一人の娘が,ウィルとスミを変えてしまった.
まるで別人だ,この目で見ても信じられない.
しかし,今.
彼らの前に立つ少年は,国王の黒猫でしかありえなかった.
彼女が消えたとたん,少年は黒猫に立ち戻った.
ひえびえとした声で,彼らに命令を与える.
「国王陛下に伝えなよ,――いけにえは神聖公国へ行ったと.」
幾人もの血を浴びてきた人殺しの人形.
幼い少年ながら,彼らの上司にあたる存在だ.
「僕たちは行けないけれど,異世界の人間ならば神聖公国へ行ける.」
表情のない顔に,黒の瞳だけが異様な光を放つ.
「ウィル様,どういう意味ですか?」
だが黒猫は答えずに,彼らに背を向ける.
洞くつの入り口に立ち,悲しそうに目に見えない壁をなでた.
いけにえの娘は,少年の手の届かないところへ行った.
彼らにも手が届かない,けれど異世界の人間ならば……,
「まさか!」
男たちのうちの一人が,黒猫の言わんとすることに気づいて声を上げる.
異世界地球の人間を,新しく召喚すればいい.
そして神聖公国へおもむかせ,王国のために働かせればいいのだ.
いや,いっそのこと,みゆを連れ戻させるという手もある.
いけにえの儀式をやり直せばいい.
その場合,黒猫ウィルの妨害を覚悟しなければならないが.
「判断するのは,ドナート陛下だよ.」
途方のない考えに震える男に,ウィルがしらけた声をかける.
「僕には,陛下の判断が予想できるけどね.」
ウィルのねらいがどうであれ,彼らの仕事は情報を正しく伝えるのみだ.
いけにえのみゆは神聖公国へ行った,異世界の人間は洞くつの結界を無効にすると.
「ウィル様は,これからどうなさるのですか?」
別の男がたずねると,黒猫の少年は炎が揺らめくような笑みを見せた.
みずからのすべてともいうべき存在を失った少年.
「ここで彼女を待つ.」
今は,それが少年の生きる道.
彼女を手離せたのは,奇跡に近い.
「俺も付き合います.」
スミが健気に言い添えた.
「分かりました.カイル様と国王陛下に伝えます.」
この二人の少年を動かすことはできない.
無理に動かそうとすれば,鮮血の代償が彼らを待つだけだ.
男たちは足早に,洞くつから立ち去った.
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