水底呼声 -suitei kosei-

戻る | 続き | 目次

  2−10  

洞くつの中に,すっと手を伸ばす.
みゆの手はすり抜けたが,少年二人の手は見えざる壁にはばまれた.
存在するはずの壁が,みゆにのみ存在しない.
その理由は……,
「ミユちゃんが異世界の人だからだよ.」
硬い声で,ウィルが説明した.
「この世界のことわりが,君にだけ通用しないんだ.」
みゆは自分の手をじっと見る.
自分が異邦人であることが,こんな風に証明されるとは思っていなかった.
洞くつを抜けると神聖公国である.
洞くつに入ることができるのは,異世界の人間のみゆだけである.
つまりみゆだけならば,簡単に神聖公国へ行けるのだ.
何も言えずに,みゆは押し黙る.
このような事態は,まったく想定していなかった.
スミはうかがうように,みゆとウィルの顔を交互に見ている.
少し離れた場所では,大きな木に縄で縛りつけられた追っ手の男たちが,かすかにうめき声を上げていた.
彼らにも予想外だっただろう,みゆが洞くつの中に入ったのは.
「ウィル,」
考えがまとまらないまま,少年に呼びかける.
「駄目だよ.」
黒の少年は,苦しそうに顔をゆがめていた.
「僕から離れないで.」
この手の届かない場所に行かないで,と.
行かない,と言葉がのどまでせり上がった.
少年の顔は日に焼けて健康そうなのに,黒の瞳には闇が宿っている.
みゆがほんの少しでも離れるそぶりを見せたなら,狂気に陥りそうな危うさがある.
けれど,
「何を言っているのですか,先輩!?」
二人の間に割りこむようにして,スミが口をはさむ.
「神聖公国へ行けるのですよ.この方法しかありません!」
スミのせりふが,みゆの胸に深く突き刺さった.
――神聖公国へは行けません.あの山は越えられないのです.
スミは去年,山を越えられなかった.
何か月もの間,森の中をさまよい歩いたと言ったではないか!
「スミ君,」
ウィルの腕をぎゅっとつかんで,みゆはスミの方を向いた.
「ウィルと二人で話すから.」
ウィルの身体の震えが,恐怖が伝わる.
「え!? でも,」
反論しかけて,スミは口を閉ざした.
こげ茶色の瞳に,苦渋が満ちる.
「先輩,」
何かを覚悟した顔で,スミは言った.
「ばかなことは考えないでくださいね.」
ウィルの顔をにらみつけると,スミは森の奥へ走り去る.
スミの背中を見送った後で,みゆはウィルと顔を合わせた.
「行くの,ミユちゃん?」
ゆがんだ顔で問いかける.
この顔は,王城でも見た.
――明日で,お別れね.
ささやいて,別れの口づけを交わした.
あのとき少年は,日に焼けていない白い肌をしていた.
今はだいぶ黒くなっている,国境への旅路で.
少年が城から飛び出して日焼けをしたのは,みゆのためだ.
震える指がみゆのほおをなぞり,首筋まで降りてくる.
「行かせない,」
ゆらゆらと揺れる瞳,水面に映る月の影のように頼りない.
「離さない,けっして!」
のどがぐっと締めつけられた.
なのに,抵抗する気が起きない.
両手をだらんと下げて,みゆは恋人に身を任せた.
視界が暗くなっていく.
手の先から,足の先から力が抜けていく.
冷静に体の変化を感じながら,心がただ悲しんでいた.
少年の顔があまりにもつらそうで,それ以外のことはどうでもいい.
自分の生死さえも――.
あぁ,好きなのだ.
いまわのときに,ウィルのことしか考えられないほどに.
――ミユ!
土の洞くつに,それ以上にみゆの心に響いた声.
あんな声を出させて,ごめんね.
泣き出しそうな顔で,みゆの生命を絶つ少年.
こんな顔をさせて,ごめんね.
私はどれだけ,あなたの救いになった?
真っ暗闇に,意識が落ちた瞬間,
「ウィ,」
ごほっごほっとむせ返り,肺が急速に空気を取り入れる.
「……ル?」
地面に両手をつきながら,みゆは自分を殺そうとした少年の顔を見上げた.
ウィルはぼう然と立ち尽くて,みゆを見下ろしている.
闇の瞳,人の心を持たない黒の人形.
感情が吹き荒れて,からっぽになってしまった.
みゆは口もとのよだれを手の甲でぬぐって,しゃんと正座をする.
心臓の鼓動がまだ速かったが,無理やりに息を整える.
落ちていた眼鏡を拾い,しっかりと少年と目を合わせた.
「殺してもいいよ.」
本当に,心からそう思う.
また少しせきこんだが,みゆは目をそらさずにしゃべった.
「ウィルなら,何をしてもいい.」
この命は,ウィルのものだから.
ウィルがいなければ,王城で殺されていただろう.
そして,こんな国境付近まで来られなかった.
「できない,」
少年は,ひざから崩れ落ちる.
「君だけは…….」
力なくうなだれる少年に,みゆは手を伸ばして抱きしめた.
いとしさが,胸の奥からこみ上げる.
けれど,――いや,だからこそ,
「私,行くね.」
少年の体が,びくりと震えた.
ずっと一緒に,二人でいるために,
「この王国を守りに行く.」
水没などさせない.
私が守ってみせる.
姉が命がけで,私を守ったように.
「必ずウィルのところへ帰ってくるから,」
あなたの未来を守りたい.
「待っていて.」
「嫌だよ.」
のぞきこんだ少年の顔は,涙でぬれていた.
「そばにいてよ,離れないでよ.」
ろうばいして,すがりついてくる.
「そんなに神聖公国へ行くことが大事なの,僕よりも!?」
みゆは首を振って,少年の言葉を否定する.
「私はウィルが一番大事.四年後もそれからもずっと,あなたと一緒にいるために行くの.」
一瞬,今よりも男らしく成長した少年の姿が見えた.
「四年後のことなんて,」
考えられないとつぶやく少年のほおに,そっと口づけを贈る.
誰よりも優しく,少年に触れていたい.
「ひきょうだ,」
黒の瞳から,透明なしずくがぽろぽろとこぼれ落ちる.
「僕は君に従うことしかできない.」
子どものように泣き出してしまった少年を,みゆはただ抱きしめ続けた.
戻る | 続き | 目次
Copyright (c) 2008 Mayuri Senyoshi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-