水底呼声 -suitei kosei-

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  2−8  

自慢ではないが,カブトムシとゴキブリの区別すらつかない.
いや,それらが図鑑にのっている写真ならば,みゆにも区別はつく.
しかし目の前で,何本もある足がわさわさと動いていると,
「きゃああああ!」
みゆは自分を背負うウィルの首に抱きついた.
「やめてよ,スミ君! どこか遠くへやって!」
あぜんとするスミの手から,こげ茶色の虫がぴょんと跳ねて逃げる.
「苦しいよ,ミユちゃん.」
ウィルの声に,みゆは我に返って恋人の首を解放した.
「ご,ごめんなさい.」
怒ってはいないが,困った顔をしている.
「すみません,ミユさん.」
まじめな顔つきで,スミが謝った.
「昆虫は苦手なのですね?」
図星をさされて,みゆはかぁと顔が熱くなる.
「ごめんね,スミ君.叫んだりして…….」
スミはみゆのために,珍しい昆虫を持ってきてくれたのだ.
花や果実は喜んで受け取ったくせに,昆虫になったとたん,大音量で叫ぶとは情けない.
神聖公国ラート・リナーゼを目指して,四日がたっていた.
ウィルにおぶわれてやっと,みゆは会話する余裕を手に入れた.
あちこちに視線を巡らせて,あれは何の木,あれはどんな鳥と質問をする.
答えるのはもっぱら,森を探索したことのあるスミである.
スミが教えてくれる動植物の名前は,みゆにはなじみのないものばかりだ.
だが形やにおいは,地球のものと変わらない.
異世界だからといって,竜やペガサスなどの幻想的な生きものがいるわけではなかった.
みゆは多少がっかりしたが,スミは,
「そんな異常な生物がいたら,大変ですよ.」
と笑った.
さらに,みゆの興味は見えない未来へも注がれる.
「どうして国境は越えられないの?」
みゆの問いは,カリヴァニア王国国王の問いでもあった.
百年以上も昔から,王国では秘密裏に国境地帯,――東西南北の“世界の果て”に対する調査が行われている.
呪われた王国から逃れるすべを探しているのだ.
しかし何度調査隊を派遣しても,結果は同じである.
東,西,南の海はどれだけ船を進めても陸地は見えず,北の山は越えられない.
スミは去年,北方調査隊の最年少のメンバーとして世界の果てを歩いたのだ.
「登っても登っても,なぜか山頂にたどり着かないのです.」
無限に続く登り道,迷っているわけでもないのに,ゴールが見えない.
「結局,薬や糧食が切れて引き返しました.前回の調査隊も,似たような理由で引き返したらしいです.」
海も山も,それがいつものパターンだ.
まれに,調査隊が帰ってこない場合もあるが.
――国境は越えられない.
ならば,なぜ神聖公国からカリヴァニア王国へ来ることはできるのだろうか?
その問いにも,スミは簡単に答えてくれた.
「洞くつがあるのですよ,ミユさん.」
スミは楽しげに笑ってみせる.
「ちょっと寄り道して見てみますか? ウィル先輩も行ったことがないでしょう?」
すると意外なことに,ウィルはふるふると首を振る.
「僕は,赤ん坊のときにその洞くつを通ったよ.」
みゆは驚いたが,スミは「あ,そうですよね.」と納得した.
「通ったって,どういうこと?」
赤ん坊のときに越境した? いや,神聖公国へは行けないはず,……ということは,
「ウィルは神聖公国から来たの?」
後ろから,少年の顔をのぞきこむ.
「そうだよ.カイル師匠に連れられて来たみたい.」
にっこりとほほ笑む少年の顔に,寂しさや悲しさという負の感情は見られなかった.
――あなた,誰?
――知らない.でも呼び名はウィル,それから黒猫って呼んでくれたら通じるよ.
年齢は十六歳以上,……少年の奇妙なもの言いの理由が,みゆには分かった.
ウィルはきっと,自分の名前や年齢を知らないのだろう.
「魔法は血で使うと言ったよね.」
みゆをおぶって歩きながら,少年はしゃべる.
「魔法を行使できるのは,神聖公国ラート・リナーゼの“神の一族”だけだよ.」
「神の……?」
「僕とカイル師匠は神の一族なんだ.」
一瞬,何もかもが途方のないことに思えて,みゆは息をのんだ.
王国を沈める神,魔法を使う神の一族,越えられない世界の壁.
地球とは異なる世界,神が絶対者として君臨する世界.
けれど,
「ウィルの故郷へ,神に会いに行こう.」
みゆは少年の肩を,ぎゅっとつかんだ.
「君が望むならば.」
風が吹きぬけ,森の木々を揺らす.
舞台がかった演出は,神に反意を持つみゆを脅すように.
おあいにく様,みゆは心の中でひとりごちる.
私は異世界の人間なの,あなたにおびえる義理なんてないわ.

そして夜は,寝袋に包まるとあっという間に眠ってしまう.
日本にいたときとは比べものにならない寝つきのよさだった.
ときおり,少年に寝顔を眺められていることに,みゆは気づかない.
気づかせないままに,ウィルは彼女の身を守っていた.
害のある虫も毒のある蛇も,少年の魔法やナイフにさえぎられて彼女には近づけない.
恋人の寝顔を見つめながら,少年の注意は別のものに向けられていた.
草を踏む音,押し殺した息づかい.
気配を消しているつもりだろうが,ウィルには通用しない.
数は六,昼間は二人だったが,日が落ちるころに六人に増えた.
王城からの追っ手である.
ウィルの下で働いていた男たちも混じっている.
今のところ襲いかかるつもりはないらしく,ただじっと息をひそめている.
もっと人数をそろえてから攻撃するつもりなのか,カイルの到着を待っているのか.
ウィルには分からないが,分からないままで支障はない.
どちらの場合でも,彼らを排除する自信がある.
殺さないでという条件が,少し面倒なだけだ.
「先輩,」
スミも追っ手を警戒して,眠っていない.
「来てますね.」
ウィルはくすりと笑んで,スミの言葉を肯定した.
そして闇を透かし見て,わざと追っ手たちに視線を合わせる.
動揺する気配,かすかに震える大気.
一人が剣を抜こうとして,仲間たちに止められる音まで聞こえた.
「行きますか?」
体を緊張させて,スミが問う.
手はすでに腰の剣に当てられていた.
「今は,やめておく.」
ついと視線をそらして,ウィルは言う.
ウィルの手を,眠る彼女が握っていた.
この手をはずせば,みゆが起きてしまうのかもしれない.
追っ手の排除よりも彼女の睡眠の方が,少年には大切だった.
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