水底呼声 -suitei kosei-

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  2−7  

翌朝,村長たちに別れのあいさつを済ませると,みゆはウィルとともに村を出た.
北の山へ続く森に入り,スミと合流する.
スミは一度,世界の果てに登ったことがあるらしい.
「途中までなら,俺が案内できますよ.」と笑った.
森の中は薄暗く,そして蒸し暑い.
どこに何が隠れているのか分からない,濃密な緑の世界だ.
都会で生まれ育ったみゆには,少しだけ怖い.
当然のことながら舗装された道はなく,先頭のスミが草をかき分けて進む.
スミの後ろにみゆが続き,みゆの後ろをウィルが守っている.
本格的な山登りは,みゆは初めてだ.
まとわりつく羽虫を手で払いのけ,大樹の根につまづいて転びそうになるところを,ウィルに支えられる.
すぐにみゆは,スミについていけなくなった.
「スミ,休憩しよう.」
十歩以上先を歩くスミに,ウィルは声をかける.
みゆは身体を折り曲げて,ぜいぜいと息を切らしていた.
「大丈夫よ,ウィル.」
なんとか顔を上げて,笑ってみせる.
汗で眼鏡が落ちそうになったので,はずして服のポケットに入れた.
「追っ手が来るのでしょう?」
荷物はすべて少年たちに持ってもらっているのに,これ以上の負担にはなりたくない.
「休んでなんか,」
「じゃ,進もう.」
ひょいと,ウィルがみゆを抱き上げた.
「荷物を持ちますよ,先輩.」
戻ってきたスミが,ウィルの背負う荷物を取り上げる.
「それと,おぶった方が楽ですよ.――ミユさん,ウィル先輩の背中にのってください.」
「ちょっと待って!」
勝手に話を進めないでと,みゆは口をはさんだ.
「私は自分の足で歩くから.」
しかし少年たちは,困ったように顔を見合わせる.
二人の顔には,まったく疲労が見られない.
「スミ,やっぱり休憩しよう.」
額に汗の一粒すら浮かんでいなかった.
「でも,先輩,」
みゆを気づかって言わないが,スミの顔には一歩でも多く歩を進めたいと描かれている.
「ごめんなさい,わがままを言って.」
ウィルの腕から降りて,けれど少年の身体から手を離さずに,みゆは謝った.
自分の足で歩くというのは,ただのみゆの自己満足だ.
「スミ君,荷物をよろしくお願いします.」
どのみち,みゆは足手まといにしかならないのだから.
「ウィル,背中を貸して.私,重いと思うけれど.」
おかしそうに,ウィルはくすくすと笑った.
「ミユちゃん一人ぐらい平気だよ.」
「急ぎましょう,先輩.できるかぎり,カイル師匠には追いつかれたくありません.」
スミが荷物を受け取って,歩き出す.
ウィルはみゆをおぶって,スミの背中を追いかけた.
「ウィル,ありがとう.」
みゆをおぶっているにもかかわらず,ウィルの足取りは軽い.
またスミの足も,速かった.
つまり先ほどまでは,みゆの足に合わせてゆっくり歩いていたのだ.
みゆはそのことに,まったく気づかなかった.
「スミ君,ありがとう!」
声が届くように,大声でお礼を言う.
スミは意表をつかれたように振り返った.
「い,いえ.荷物を持つぐらい,たいしたことでは……,」
ほおを赤くして,少年は照れた.
「お礼なんか必要ないです!」
妙にあわてる様子が,なんだかかわいらしい.
「ありがとう.これからもよろしくね.」
みゆは,くすくすと笑った.
「はい.」
スミは,打ち解けた笑顔でうなずく.
しかし唐突に,少年の顔がさっと青くなった.
「先輩,誤解です.下心があるわけじゃないです!」
「へ?」
少年の動揺ぶりに,みゆがウィルの顔をのぞきみようとすると,ウィルはふいっと顔をそらす.
「ミユさんと会話しただけで,怒らないでくださいよ!」
「怒ってないよ.」
せりふとは裏腹に,声がすねている.
みゆは思わず,吹き出して笑ってしまった.
「笑いごとじゃないですよ.」
と言った後で,スミも笑う.
神聖公国を目指す旅は,楽しいものになりそうだった.

――君に,自分の意思はあるのか?
日が暮れるまで,ウィルとスミは歩き続け,大きな木の根元で足を止めた.
スミが手早く火をおこして,ウィルがナイフで大蛇を捕ってくる.
二人は自然に仕事を分担していて,あっという間に夕食のシチューができ上がる.
グロテスクな蛇の肉に,みゆは多少の抵抗を感じたが,意外に肉はうまかった.
あぶら身が多く,日本人好みの味かもしれない.
そして寝床にもぐりこむと,二人の少年はすぐに眠ってしまう.
みゆだけが寝つけずに,もぞもぞと寝返りを繰り返した.
――何のために,大学へ行くのか.
地球での日々が,浮かんでは消える.
予備校の進路指導の担当者が,みゆに言った言葉.
どんな大学生活を送りたいのか,将来は何になりたいのか.
――私はどうしても,あそこの大学へ行かなければならないのです.
思い出すのは,地球へ帰らないと決めたから.
地球での生は,姉の死を後悔するためだけの生.
地球から持ってきた荷物はすべて,森の中に埋めて捨てた.
もう必要ない.
携帯電話も予備校の学生カードも定期券も.
私は,神聖公国ラート・リナーゼへ行くの.
後悔するのは嫌だから.
守ってみせる,今度こそ.
どうして私は,姉をかばえなかったのだろう.
あのときは何もかも一瞬の出来事だった,だが今は四年も猶予がある.
さらに隣には,ウィルもいる.
けっして離れずに,ずっとそばにいてくれる.
――私はウィルに会うために,産まれてきたの?
腕を伸ばして,隣で眠る少年の黒い髪に触れて.
今,初めて,自分が生きてることを幸福に感じる.
あなたに会いたかった.
あなたに会いたいから,私は生き残ったのだと思う.
――僕が,怖い?
「怖いよ.」
少年は生きている人間に向かって,ちゅうちょなくナイフを投げつける.
スミとの戦闘で,みゆはその事実をまざまざと見せつけられた.
「でもウィルがいないのは,もっと嫌なの.」
たとえ少年の手が血に染まっていても.
「だから,そばにいて.」
私に勇気を.
あなたがどんな人であっても,愛し続ける覚悟を.
「起きているでしょ? ウィル.」
寝顔に問いかけると,少年はゆっくりとまぶたを開く.
「起きているよ,ミユちゃん.」
髪に触れるみゆの手を取って,指先に優しく口づけた.
「君が望むなら,僕はずっとそばにいる.」
指先から,しびれるような甘い毒.
「君の生きる世界が僕のそばにしかないように,僕の生きる世界も君のそばにしかない.」
同じ孤独を持つ瞳が,みゆをひたと見つめた.
どこにも居場所がない,生きている許しが得られない.
孤独な魂は出会ってしまえば,必ずひかれあう.
あの暗い夜,世界を越えて二人が出会ったように.
この孤独は,あの夜の出会いを彩るためだけにあった.
「君は僕のもの,――ずっと会いたかった,手にしたかった.」
暗い水底に,二人で沈んでいく.
暖かな水の流れが,みゆのほおを包む.
「手に入れたならば,もうけっして離さない.」
口づけは息苦しくなるほどに.
そっと瞳を開けば,水面に映る月が揺らぐ.
みゆの吐き出す泡は,少年の唇にのみこまれた.
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