水底呼声 -suitei kosei-

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  2−4  

次の日の昼過ぎに,みゆとウィルは小さな村に着いた.
十分な休憩を取りながら歩いていたのに,みゆはその場で座りこみたいほど疲れきっていた.
足には豆ができているし,筋肉痛で体の節々が痛む.
荷物はすべて少年に持ってもらっているのに,なんてざまだろう.
今さら,日ごろの運動不足を悔いても,どうしようもない.
およそ三年ぶりに客人がやってきたと,村人たちは大歓迎してくれた.
「王国最北端のカーツ村へようこそ!」
よほど珍しいのか,多くの村人たちがわざわざ見物しにやって来る.
子どもたちに無邪気に指で指されて,みゆは動物園のおりの中にいるような気分になった.
頭がくらくらする,あまり注目しないでほしい.
村は深い森に接していて,森は世界の果ての山ろくへ続く.
みゆは気づかなかったが,荒地はいつの間にか,みずみずしい緑地へ変わっていた.
村長だという中年の男が現れて,わが家に泊まってはどうかと勧める.
村には当然,宿屋がない.
「お願いします.」と少年がほほ笑んだところで,意識がふいに途絶える.
自分を支える黒い腕を感じながら,みゆは気を失った.

目覚めたとき,小さな手がみゆの頭をなでていた.
「気分はどうだい? お嬢さん.」
ぼんやりとした視界の中で,老女がいたわるように聞いてくる.
ベッドの中で起き上がろうとすると,下腹部にずきりとした痛みを感じた.
「あぁ,起きなくていいよ.しんどいだろう?」
痛みの理由に思い当たり,みゆは恥ずかしさに顔を熱くする.
「あ,ありがとうございました.」
月に一度のものがやってきたのだ.
周囲に女性がいるときでよかったと心から安堵する.
「あの,ここは……?」
木造の家の室内であり,窓の外はすでに暗かった.
小さないすに腰かけた老女が,みゆにほほ笑みかける.
「ここはカーツ村.お嬢さんは村にやってきて,すぐに倒れたのだよ.」
記憶をたどり,みゆはここは村長の家だと推察した.
「どんな事情があるのか知らないけれど,しばらく旅は中止にしなさい.」
優しい手が,みゆの頭をなでる.
「でないと,また倒れるわよ.」
うっとりとする,乾いた手のひらが気持ちよくて.
「この家なら,何日でも滞在していいから.」
「ありがとうございます.」
みゆは素直に好意を受け取った.
確かに,こんな体調で旅が続けられるとは思わない.
そして目覚めたときから気になっていることを,たずねてみる.
「ウィルは,――私と一緒にいた男の子を知りませんか?」
いすから立ち上がり,老女はふふふとほほ笑んだ.
「あなたのことを心配して,ずっとそばにいるわ.」
扉を開いて,「入ってきていいわよ.」と廊下に呼びかける.
ぴょこんと,黒髪の少年が顔を出した.
ウィルの顔を見て,みゆは思った以上に安心してしまう.
「いい子ね,お姉さん想いで.」
少年と入れちがいに,老女は出ていく.
みゆは夢見心地で,彼女の後姿を見送った.
彼女からは,暖かなミルクのような甘いにおいがした.
「大丈夫,ミユちゃん?」
少年はベッドのそばまでやってくると,みゆの顔をのぞきこむ.
こちらからは,今一番かぎ慣れている汗のにおい.
「ごめんなさい,ウィル.」
ひさびさの至近距離に,不覚にもどきりとしてしまう.
闇夜の瞳が,いつもみゆだけを見つめている.
「気分は?」
ほおを包む両手に,心臓がすくみ上がる.
「まだ体がだるいけれど,大丈夫.」
みゆは何とか笑ってみせた.
「ごめんなさい,足手まといになって.」
「キスしていい?」
いきなり懇願されて,今度は心臓が飛び跳ねる.
「だ,駄目,」
無理やりに顔をそらして,拒絶した.
心臓が早鐘のように鳴っている.
もしも強引に迫られたら,許してしまう.
顔も赤くなっているのかもしれない.
しかし少年の熱が,みゆから遠ざかった.
「僕が,怖い?」
みゆを見下ろす黒の瞳は,何の感情も映していない.
「僕のこと,嫌いになった?」
なのに,何かを訴えかけているように見えて,
「なってない!」
ぶんぶんと,みゆは子どものように首を振る.
「なら,お姉ちゃんと呼んだ方がいいの?」
かすかに首をかしげて,かわいらしいしぐさで少年は聞いた.
みゆが望む,弟のように.
「……呼ばないで.」
ひきょうなせりふだ.
言った瞬間,そう思った.
煮えきらない態度を,少年に示し続けている.
ウィルは,いけにえだったみゆを助けてくれたのに.
城から逃げ出し,今も守ってくれているのに.
姉弟だと勘違いされて,みゆは否定しなかった.
だからウィルも,弟のふりをする.
気まずい沈黙が流れて,少年は部屋から出ていく.
好きだと言ってくれている少年に対して,残酷なことをしている.
そう自覚しながら,みゆは何もできなかった.

静かに扉を閉めて,ウィルは薄暗い廊下に出た.
瞳を閉じて,あたりの気配を探る.
村長はすでに寝室で眠っている.
台所では,先ほどまでみゆの部屋にいた村長の母が,息子の妻とおしゃべりをしている.
家の住人は三人で,子どもはいない.
家の外の気配も探ったが,夜遅いこともあり,周囲には誰もいない.
さらに意識を広げて,村中の気配を探る.
害意を持っている者はいない.
――城からの追っ手はまだ,来ていないようだ.
だが,この村で足止めされている間に追いつかれるだろう.
彼女は動けない.
たとえ動けたとしても,みゆの足では逃げ切れない.
彼女は,ウィルの想像以上にひ弱な女性なのだ.
闇の中,少年は口もとに笑みを浮かべる.
誰が追っ手なのか知らないが,来るなら来ればいい.
国王の黒猫ウィルを殺せると思うのならば,いくらでも挑戦してみればいい.
クモのように糸を張り巡らせて,魔法のおりの中に捕らえてみせる.
みゆは渡さない.
彼女の心が少年から離れていても,
「――僕のものだ.」
つぶやいて,しかし気持ちは重く沈みこんでいた.
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