水底呼声 -suitei kosei-

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  2−3  

東の地平線から朝日が昇る.
この世界では地球と同じく,太陽は東から昇り西へ沈む.
みゆは窓辺に立って,朝が始まるのをぼんやりと眺めた.
昨夜は,ほとんど眠れなかった.
みゆがウィルの部屋を訪れた日から,すでに五日がたっている.
みゆはずっと,ウィルの魔法の力で眠っていたのだ.
眠ったままで,王国北方のこの村まで運ばれた.
もはや何も言えない.
すべて終わった後だった.
城から追っ手が来ると少年は言うが,いまいち現実感がわかない.
さらに現実感がわかないことに,みゆが助かったために王国は海に沈む.
みゆは,いけにえだったのだ.
「カリヴァニア王国は,神様に呪われているんだ.」
神様とは何者か,それは少年も知らないらしい.
姉を犠牲にして生き残り,次はひとつの国を犠牲にして生き残るのか.
「死にたいなら,僕が殺してあげるよ.」
少年は,くったくなく笑う.
「君の血で王国を守る.――君が望むのならば,」
みゆのために,王国を裏切ったように.
「僕は何だってできる.」
黒の瞳の中に,炎が揺らぐ.
狂気の炎が,
「ミユちゃん,」
呼びかけられて,みゆはもの思いから覚めた.
相変わらず黒一色の服を着た少年が,扉のそばに立っている.
もしやこれは,喪服なのだろうか.
「宿のおかみさんが,朝ご飯を用意してくれたよ.」
にこにこと,あどけない笑みを見せる.
幼い顔をして,王の命令で人殺しをしていた少年だ.

「具合はどうだい?」
階下へ降りると,おかみがみゆたちを迎えた.
「おや,まだ顔色が悪いね.」
みゆの顔を見て,心配そうにまゆをくもらせる.
「出発は延期した方がよくないかい?」
みゆがとまどっていると,ウィルが返事をした.
「大丈夫だよ,僕が一緒にいるから.」
少年に肩を抱かれて,テーブルまで連れられる.
促されるままにいすに座り,みゆはまるで人形のようだ.
「ウィル,」
向かいに座って食事を始める少年にたずねる.
「出発って,どこへ?」
「北.」
少年は簡潔に答えた.
「世界の果てへ逃げるんだ.」
「世界の,果て?」
世界に“果て”があるのだろうか.
みゆは疑ったが,すぐに考え直した.
ここは異世界なのだ,たとえ太陽が東から昇っても.
「チキュウへ帰りたい?」
静かな問いかけに,みゆは黙って瞳を伏せる.
今は,考えられない.

村を出ると,大きな山脈が北の空を覆い隠していた.
天を突く険しい山並みは,日本アルプスに似ている.
「あれが世界の果てなの?」
村の外は荒地で,草木は少ない.
わずかにある緑地に,村は建っていたのだ.
「そうだよ.」
踏み固められただけの道を,みゆはウィルの後をついて歩く.
「あの山脈が,北の世界の果て.」
暑い日差しが照りつけるので,マントのフードを目深にかぶる.
少年はマントも黒色だ,みゆは灰色のマントをはおっている.
「どんなたくましい男でも越えられない世界の壁だよ.」
足を止めて,みゆは世界の果てを仰ぎ見た.
確かに,容易に越えられる山ではないだろう.
「けれど世界の果ての向こうから,こちらへ来ることはできる.」
「なぜ?」
越えられない山だと言ったのに.
「山を越えた先には,神様に祝福された国がある.」
風が吹いて,寂しい荒地の景色をさらに寂しくさせる.
「神聖公国ラート・リナーゼ.カリヴァニア王国の民が追い出された国だよ.」
少年の横顔を,みゆは見つめる.
神の地を追われた罪人は,けっして故郷へ帰れない.
「そこに,神様がいるの?」
王国を呪い,海底に沈める神が.
「多分ね.」
興味なさ気に,少年はつぶやいた.

何度も休みながら歩き続け,日が暮れるころになって,小さな集落にたどり着いた.
集落には宿がなく,一軒の民家に泊めてもらう.
小さな子どもが五人もいる家で,ウィルは宿代代わりに魔法を見せる.
赤や黄や青の炎が舞い踊り,子どもたちはすぐに夢中になった.
親たちは,みゆたちを旅芸人の姉弟だと思ったようだ.
子どもたちに囲まれるウィルを眺めながら,みゆはいつの間にか眠ってしまう.
いくら休憩を多く取っても,みゆはもともと歩き慣れていなかった.
そして朝になると,再び世界の果てに向かって出発する.
辺境の地を旅しているせいか,ほかの旅人と出会うことはない.
唯一すれちがった旅人は,衣服の行商をしている若い男だった.
馬車の中から色鮮やかな衣装を取り出し,これはどうだ,あれはどうだと購入を勧める.
みゆが断ると,長い髪をまとめるのに使えばいいと白いリボンをくれた.
「いくら?」
ウィルがたずねると,端切れだから金はいらないと言う.
彼と手を振って別れ,再び荒野を歩く.
今度は日が暮れても,集落にたどり着かなかった.
「ミユちゃん,野宿しよう.」
荷物を背中から降ろして,少年は火をおこす.
歩きながら拾っていた枯れ枝で,手早くたきぎを作った.
少年との旅はいたれりつくせりで,みゆにはやることがない.
ただ一生懸命に歩くだけだ.
ウィルは乾パンと干し肉をさっさと食べ終えて,次は寝床を作り始める.
みゆはいつまでも食べていた.
――職業は?
――黒猫だよ.
王城で過ごした日々が遠くなる.
もう何日,風呂に入っていないのだろう.
メイドのツィムの笑顔も遠くなった.
城で出された和食が恋しい.
はしを器用に操るみゆに,ウィルは興味しんしんで…….
黒髪黒目の幼い,たった十六歳の少年.
こんな子どもが,暗殺者?
国王直属の,日本でいうところの戦国時代の忍びのような?
黒装束であるところは同じだが,手裏剣を投げるわけでも空を飛ぶわけでもない.
みゆは,だまされていないか?
王国が水没するだの,地球人を殺すだの,ばかばかしい.
ウィルはただ,みゆと旅がしたいだけ.
城から出て,二人きりになりたかっただけだ.
「ウィル,趣味の悪い冗談はやめて.」
みゆは無理やり笑顔を作って,言った.
そんなことをしなくても,私は,
「どうしたの?」
少年は不思議そうに問い返す.
「あ,」
インクでべったりと塗ったように黒い瞳.
「ごめん,何でもない.」
利己的な自分の望みに気づいて,みゆは目をそらした.
好きだから,嫌いにはなれないから.
血のにおいをさせていても,ナイフを数多く所有していても,黒の瞳に狂気をはらんでいても.
人殺しだと,信じたくない.
だから,何か間違っていないか疑いたくなる.
たとえ人殺しだとしても,国王の命令に従わざるをえなかったのだと考えている.
異世界にそんな習慣があるのか知らないのに,喪服を着ているのだと思いこんでいる.
殺人は強要されたもので,ウィルは何も悪くない被害者なのだと.
「ミユちゃん?」
近づいてきて手を伸ばした少年に,みゆはびくりと震える.
少年を受け入れる勇気は持てなかった.
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