水底呼声 -suitei kosei-

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  2−1  

澄んだ夜空に,ぽっかりと浮かぶ月を眺めていた.
歩道橋の上で,しばし足を止めて.
地球の月はどれだけ輝いていても,寂しく見える.
それはみゆの隣に,少年がいないから.
こぽりと口から泡が出る.
泡は中空まで昇って,見上げる月がゆらゆらと揺れる.
あれは水面に映った月の影.
こぽこぽと息がこぼれていく.
暗い海の底で,水の流れに長い髪がもてあそばれる.
――ミユちゃんはきれいだね.
少年のほほ笑みがよみがえる.
髪を押さえつけて,みゆはしゃべろうとした.
ありがとう.姉さんはくせ毛だったから,この髪は少し自慢なの.
――かやと同じ大学に入って,あなたはどうするの?
母親の声がよみがえる.
――かやが送れなかった大学生活を送るの?
何も言わない父親の,もの言いたげな目がよみがえる.
――かやは死んだのに,どうしてあなたは生きているの?
姉を救えなかった後悔と,一人だけ助かってしまった負い目が,今もみゆを苦しめる.
私はどうして生きているの?
ごぽごぽと息がのまれる.
生きていていいの?
生き残ってよかったの?
がばりと空気を吐き出して,代わりに入ってくるのは黒い水.
苦しい,生きていくのは苦しい.
胸をかきむしる,真っ暗闇に落ちないように.
たった一人で生きていくのは,
「ミユちゃん.」
唐突に,みゆは目を覚ました.
「へ?」
みゆの顔を,黒髪の少年が心配そうにのぞきこんでいる.
「ウィル? 私は寝ていたの?」
「うん,ぐっすりと.」
ベッドから起き上がれば,少年がうれしそうに笑う.
そして眼鏡を手渡した.
「ありがとう.――今はまだ夜?」
眼鏡をかけて部屋を見ると,がらりと様子が変わっている.
「そう,夜だよ.」
清潔で寝心地のいいベッド,かわいらしい造作の鏡台.
鏡台の脇には,みゆが地球から持ってきたリュックがあった.
ウィルの部屋に大量にあったナイフは,まったく見当たらない.
「ここは,……どこ?」
少年に抱かれるために,ベッドに入ってからの記憶があやふやだ.
「後で説明してあげる.」
ウィルはにこにこと笑って,シチューの皿を差し出す.
「まずは食べてよ.おなかがすいているでしょう?」
おいしそうなにおいに,みゆの腹はぐぅと色気のない音を立てた.
「ありがとう.」
素直に受け取って食べ始めると,よほど空腹だったのか,驚くほどに食が進む.
自分の服装が変わっていることにも気づいたが,目の前の食事に気を取られた.
「もっとゆっくり食べないと駄目だよ.」
少年がたしなめるように,みゆのスプーンを持つ手をつかんで止める.
「ひさしぶりの食事なのだから.」
「あ,ごめんなさい.」
恋人の前で,がつがつとみっともなく食べてしまったと,みゆは恥じた.
「食欲,あるよね?」
探るような少年の視線に,みゆはこくりとうなずく.
食欲があるどころか,遊び疲れた子どものように腹ペコだ.
「よかった,魔法は成功だ.」
少年はみゆをぎゅっと抱きしめる.
「これで君は僕のもの.」
くすくすと笑って,みゆをなかなか解放しなかった.

ざっくざっくと,土の地面が掘り返される.
黒装束の男たちが,ある一人の女性の墓を暴こうとしているのだ.
陰気な作業にふさわしく,夜は暗く沈みこんでいる.
カイルの隣に立ち,スミは黙って作業を見守った.
「ありました.」
男たちが真新しい棺を掘り出す.
「開けろ.」
カイルが男たちに命じる.
だが死者へのぼうとく,――しかも若い女性に対する,に男たちはちゅうちょした.
スミだって,本音を言えば開けてほしくない.
「いいから,開けろ.中に入っているのは人形だ.」
カイルが再び命じると,男たちは顔を見合わせてから,ふたをこじ開けた.
「ミユさん,」
棺の中で眠っているはずの娘に,スミはランプの明かりをあてる.
白いほお,漆黒のつややかな髪.
少年の呼びかけに応じて,闇夜の瞳が開かれる.
うっすらとほほ笑みかける,美しい人形.
まったく腐敗はしておらず,それは三日前の死体ではありえなかった.
「もういい.墓を戻せ.」
カイルは,その場から離れる.
「スミ,来い.」
「はい.」
彼の声はあきらかに怒っていて,少年はびくびくしながら,ついていく.
「ウィルを殺せ.」
「無理ですよ!」
与えられた命令を,少年はすぐさま拒絶した.
「お前が監視をやめたときに,ウィルはいけにえと人形を入れ替えたのだ.」
カイルの顔は厳しい.
「殺されに行け,せめて黒猫の腕の一本でも折ってみせろ.」
「そんな……,」
スミの甘さに,ウィルは徹底的につけこんだ.
みゆの人形は,事前に用意していたのだろう.
ただ入れ替えるチャンスがなかっただけで,しかしそのチャンスをスミは与えてしまった.
――職務怠慢だよ,スミ.
あのとき,ウィルは笑っていた.
本当に楽しそうに.
スミがみゆに触れるのを止めたのは,人形だとばれることを防ぐため.
儀式の朝はメイドのツィムからも遠ざけ,人形に朝食を取らせなかった.
そして何食わぬ顔で儀式を行い,罰を受けるであろうスミを見捨てて城から逃げたのだ.
おそらく本物のみゆは,黒猫の部屋に隠されていたのだろう.
「儀式をやり直さなくてはならぬ.いけにえは連れ帰れ.」
冷静なカイルの声が,少年を打つ.
力なくスミは,うなだれた.
黒猫を倒し,なおかつ黒猫の執着する宝を奪うなど不可能に決まっている.
けれど,どれだけ嫌だと言っても,スミは命令に従うしかない.
命令に従わなければ,ウィルではなくカイルが少年を殺すだろう.
スミは,犯すべきではない失態を犯したのだから!
あれは演技だったのですか,先輩?
みゆを殺した後の痛ましい姿は.
「あのようにけがれた子どもに慈悲を与えるから,こうなるのだ.」
いまいましげに,カイルは舌打ちをした.
「すみませ,」
「お前を責めているのじゃない.」
冷たい声だった.
カイルはいつも冷たいが,少年に最後の命令を下した今は,さらに冷たかった.
「俺,行きます.」
うなだれたまま,スミは言う.
「多分,腕の一本も折れません.ただ殺されに行きます.」
演技ではなかったと,少年は確信していた.
あの,虚無を映した黒の瞳.
彼女の人形を壊しただけで吐いてしまうほどに,黒猫は恋におぼれているのだ.
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