水底呼声 -suitei kosei-

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  1−14  

恣意的に仕事をさぼるのは,初めてだ.
スミは廊下の壁にもたれて,朝が来るのを一人で待っていた.
少年はすっかりと,いけにえのみゆに同情していた.
しかし,あわれんだからといって,何ができるわけでもない.
壁にもたれたまま,ずるずると腰を落とす.
初めて真正面から見た彼女の顔は,深い悲しみに満ちていた.
「スミ,」
いきなり声をかけられて,スミはびっくりして顔を上げる.
「先輩!?」
恋人と夜を過ごしているはずの黒猫が,そこにいた.
腕に,長い黒髪の女性を抱いて.
「なぜ,ここにいるのですか?」
みゆがしっかりと眠っているのを確認してから,スミはしゃべった.
「彼女,せっかく部屋まで行ったのに.」
最後の夜に,悲痛な想いを携えて.
「職務怠慢だよ,スミ.」
スミの非難を,ウィルはくすりと笑って受け流す.
「カイル師匠にしかられても知らないよ.」
スミは,うっと言葉に詰まった.
職務怠慢どころではない.
スミは見張る対象であるみゆの前に姿を現し,さらに黒猫の部屋まで案内した.
裏切り行為として罰せられても,文句は言えない.
そして彼女がベッドに入るのを見届けると,見張りをやめた.
さすがに見ていられない.
しかも相手は,スミのよく知っている兄貴分のウィルである.
「見逃してくださいよ,先輩.」
お願いしますと頼みこむと,ウィルは楽しそうに笑った.
「これは先輩のためでもあるのですから.」
この黒猫はスミがのぞいていようがいまいが,気にしなさそうだが.
しかし,初めての夜であろう彼女の方が気の毒だ.
「いいのですか?」
スミは聞いた.
「何が?」
ウィルは軽く問い返す.
「明日,」
腕の中で,みゆのほおが死人のように白かった.
「殺せるのですか?」
彼女が生きていることを確かめたくて,手を伸ばすと,
「スミ.」
射るような視線が,スミの手を止める.
「ミユちゃんに触ったら殺すよ.」
ぞっとした.
「彼女は僕のもの.」
闇に生きる黒い猫.
「チキュウへは帰さない.それに帰し方も知らない.」
凄絶な笑みを浮かべて,狂気に似た愛を抱く.
「明日,完全に僕だけのものにする.」
もはやスミには,言うべき言葉はない.
国王の黒猫,ウィルに人間らしい感情は存在しない.
黒猫に殺せない人間はいない.
たとえ恋人であっても,――いや,いとしい人だからこそなのか,スミには分からない.
スミは,ただ笑うウィルから顔をそらす.
年に一度,地球から召喚されるいけにえの女性たちは,スミの心を痛めた.
田中和恵も,加賀由美子も,柳田沙織も,佐伯晶子もつらかった.
特に晶子は泣きながら命ごいをしたから,なおさらだった.
どうして.
なぜ.
死にたくない.
地球へ帰してくれるのではなかったの?
彼女たちの声がこだまする.
血にまみれ,帰還の約束を裏切られた異世界の娘たち.
――ウィル?
恋人に殺される瞬間のみゆの顔が浮かんできて,スミはぎゅっと目を閉じた.
もう何も見たくない.
すべてを投げ捨ててしまいたい.

沈んでいく.
日の光の届かない海の底まで.
眠りに落ちたみゆは,夢の世界を漂っていた.
恋は裏切られ,夜は白んでいく.
地球へ帰っても,心は戻らない.
ならば闇に抱かれて,一生眠っていたい.

翌朝,みゆの帰還の日.
彼女を起こしに来たツィムは,寝室の扉を開けたとたんに言葉を失う.
みゆはすでにベッドで起き上がって,少女を待っていた.
白いすべらかなほお,研ぎ澄まされた刃のような漆黒の瞳.
つやのある黒髪が,ほっそりとした体を縁取る.
この人は,本当にきれいになった.
何の魅力もなかった娘は,さなぎがチョウになるように美しくなった.
けれど彼女の美しさは,日の光でつぼみが花開くようなものではない.
別れの定められた恋,闇色に染まった瞳.
唇から漏れるのは恋の喜びではなく,憂いのため息.
「朝食を持ってまいりますね,ミユ様.」
無理やりに笑顔を作って,ツィムはほほ笑む.
この城での,みゆの最後の食事だ.
「必要ないよ.」
すぐそばで声がして,少女はびくりと震える.
メイドごときに,気配は感じさせない.
国王直属の兵士,王に逆らう者を殺すのが少年の仕事だ.
「行こう,ミユちゃん.」
ウィルの呼びかけに,みゆは静かにベッドから離れる.
「あ,」
ツィムは最後に何かを言おうとしたが,口を閉ざした.
僕たちの邪魔をしないで,と少年が訴えているように見えて.
「さようなら,ツィムちゃん.」
くすりと笑んで,黒猫がみゆを連れて部屋から出て行く.
ばたんと扉の閉まる音が,ツィムとみゆの別れの音だった.

長い髪を,ウィルはていねいに指ですいた.
「きれいだ.」
どこか懐かしさを感じさせる黒い髪.
ウィルの覚えているかぎり,いけにえの女性たちは誰も黒い髪を持っていなかった.
みゆだけだ,少年の心を揺り動かしたのは.
少年はふっとほほ笑み,どのように真実を告げようか考える.
彼女は怖がるだろうか,嫌がるだろうか.
ウィルから逃げるだろうか.
だが,もはや手遅れだ.

きりきりと痛む胸を押さえて,国王は儀式の行われる部屋へ向かった.
十日前にいけにえを召喚した,半地下となっている部屋だ.
この部屋を知る者は限られている.
出入りできる扉はひとつしかなく,窓は存在しない.
床に大きな魔法陣が描かれているだけの,何もない部屋だった.
なぜ,この方法しかないのだろう.
儀式に参加する面々を見回すと,皆一様に苦渋に満ちた顔をしている.
ドナートも同じ顔をしているのだろう.
ただ一人,カイルのみが平静な顔をしていた.
毎年恒例の嫌な儀式.
殺人の場に立ち会うことを,国王はみずからと腹心たちに課していた.
「連れてきたよ.」
扉が開いて,黒の少年といけにえの娘が入室する.
しっかりとつながれた二人の手に,ドナートは体がちぎれるような痛みを感じた.
――ちゃんと,あと五日間待ってから殺すよ.
たった五日前には,少年はそう言っていた.
あのころのウィルは,新しいおもちゃを見つけた子どもだった.
――落ちついてよ,陛下.ミユちゃんを牢に入れて,ほかの人たちにどんな説明をするの?
なのに次の日には,余裕のない表情で彼女をかばっていた.
少年の変化は急すぎた.
以前のウィルは,誰にも興味を示さなかった.
ドナート,カイル,スミ以外の人間とは,まともな会話すらしていなかったはずだ.
常に自室に閉じこもっている黒猫を,この十日間でどれほど王宮内で見かけただろうか.
カイルに監視をやめるように言い,ほかの者にも放っておくように命じた.
国王なりの情けだった.
せめて儀式の日までは,と.
ウィルはドナートに感謝の言葉を述べる時間も惜しんで,恋人のそばにいた.
どれだけ愛し合っていても,二人に未来はない.
黒猫もいけにえも,この城から逃げ出せない.
裏切りは許されない.
もしもウィルが裏切るのならば,いけにえとともに鮮血の海に沈むのみだ.
五日前に国王が忠告したように.
いけにえには近づくな.
もっと強く命令すべきだった.
少年を縛りつけてでも,彼女に近づけるべきではなかった.
ウィルが,みゆを魔法陣の中心へ導く.
ドナートの手の届かないところで,黒猫の子どもは勝手に変わった.
変化の原因となった娘は亡羊とした表情で,少年を見つめる.
彼女は今,何を思っているのか.
国王には読み取れない.
「さようなら,ミユちゃん.」
少年はそっと,恋人の瞳にキスをする.
そのときになって初めて,国王はみゆが眼鏡をしていないことに気づいた.
彼女のほおにさらりと触れて,少年は魔法陣から立ち去る.
「儀式を始めます.」
ひえびえとした夜の月のような声で,ウィルは告げた.
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