水底呼声 -suitei kosei-

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  1−13  

彼女の腕が少年を受け入れたとき,目のくらむような幸福感が訪れた.
「あと四日,私のそばにいて.」
毒を盛られたように,頭がくらくらする.
もっと近くにいたいと交わしたキスは,驚くほどに甘くて.
「キスしていい?」と聞くのを忘れたと,少年はぼんやりと思った.
初めて出会ったときに分かった.
何かに耐えて一人で立っている姿にひかれて,声をかけた.
海の底をのぞきこんだような,深い闇の瞳.
名前があると聞いてがっかりしたが,みゆは少年と同じ立場の人間だった.
「僕とずっと一緒にいよ.」
君は僕のもの,僕だけが君を理解できる.
そばにいたいと思ったから,彼女にまとわりついた.
カイルや国王が反対しても,どうでもよかった.
なのに,
「出て行って,もう私に構わないで.」
みゆの言葉に,少年は従った.
従った理由に気づいた瞬間,ウィルは強い衝撃を受けた.
何も分からずに聞いていた,エーヌの言葉.
「もしも自分よりも国王陛下よりも,誰よりも大切にしたい女性ができたならば,」
できたならば,どうすればいい?
エーヌはカイルには内緒だと笑って,いろいろなことを教えた.
優しくほほ笑みかけること,柔らかく抱きしめること,素直に自分の気持ちを伝えること.
それらが,愛することだと.
ただ彼女のことが大切で,みゆを地下牢に入れろと命じる国王に反抗した.
「そばにいて,」
泣き出しそうな声に,すべてが壊れた.
抱きしめるたびに,口づけを交わすたびに,狂っていく.
監視役のスミの視線は,何の制止にもならない.
彼女という存在におぼれていく.
恋しい人しか見えない.
ただひとつだけ気がかりなことに,カイルの監視がなかった.
ずっとみゆとウィルを見張っていたのに,唐突に彼はやめたのだ.
「陛下のご命令だ.」
正直にたずねると,渋い顔をしてカイルは答えた.
「二日後の儀式の日まで,好きにしろ.」
吐き捨てるように言う.
「お前は変わった.変わってしまった.だが,これ以上は変われない.」
彼の言葉を,少年は正しく理解した.
カイルはおどしているのだ.
ここまでは見逃してやるが,これ以上は見逃さないと.
「今のうちに発情すればいい.陛下はお前に同情していらっしゃる.」
誰よりもウィルを憎む,育て親のカイル.
国王からのおどしには感じられなかった本気がある.
それとも,少年の気持ちが変化したからだろうか.
わが身をほろぼす恋に,そうと分かりながら,のめりこんでいく.
あと二日,あと一日.
ウィルは数えだす.
この幸福には,期限がついている.
彼女は動かなくなる.
ほほ笑みもぬくもりも,言葉もまなざしもなくなる.
「明日でお別れね.」
みゆの笑顔がまぶしくなるたびに,
「うん.」
彼女の声が甘くなるたびに惜しくなる,けれど.
これ以上は変われない.
いけにえの彼女,黒猫の自分.
水没する王国,監視されている城の中,未来は変わらない.
ここから逃げ出せないことは,黒猫のウィル自身がよく分かっている.
――お前がアキコとリートを殺したように,カイルが今年のいけにえとお前を殺す.
みゆは殺される,晶子と同じように.
ならば,と思う.
君を殺すのは,僕の役目だ.
好きだから,大切だから,誰にも譲れない.
誰にも触れさせない.
永遠の沈黙の中で,僕だけのものにする.

たん,たんと,ナイフが木の板に突き刺さる.
「不浄なる地によみがえる,我らが神の至宝.」
深夜,少年は一人で孤独に耐えていた.
「嘆きを喜びに,別れを出会いに,神の力をたたえよ.」
ナイフの刃が青白い炎にぼうと包まれて,一瞬で消える.
明日,みゆは動かなくなる.
黒猫が彼女をかみ殺し,彼女の血が王国を救う.
ベッドの上でひざを抱いて,少年は呪文の詠唱を続ける.
「彼らの嘆きは神には伝わらぬ,彼らの怒りは神には伝わらぬ.」
神への祈りなのか呪いなのか,ウィルは知らない.
カイルに習ったものを,そのままなぞっているだけだ.
「惑い,恐れ,人の証.」
部屋の明かりはつけていない.
ウィルは夜目がきくので,部屋にろうそくは置いていなかった.
「流れる血潮を,壇にささげよ.」
つと人の気配を感じて,ベッドから降りる.
足音を立てずに扉に近づいて,さっと開いた.
「あ,」
外に立っていた人物に,黒猫の少年は不覚にも驚いてしまう.
長い黒髪が,夜の香りを放っていた.
闇を映す瞳が揺れて,白いほおが薄紅色に染まる.
「ウィル,部屋に入れて.」
彼女は震える声で請うと,恥じ入るようにうつむいた.
少年は何も反応を返せずに立ち尽くす.
「どうやって,この部屋に来たの?」
黒猫の部屋は,一部の限られた者しか知らない.
「探していたら,緑の髪をした男の子が案内してくれたの.」
部屋を知る,緑の髪をした子どもは一人しかいない.
いけにえの監視役であるはずの,スミだ.
ウィルはみゆの手を引いて,部屋の中へ入れた.
扉を閉めると廊下からの明かりが消えて,部屋は再び暗闇に包まれる.
彼女には明かりが必要だと,ウィルは灯火の魔法を発動させた.
部屋の天井が,淡い黄色の光を放つ.
「ひっ,」
みゆが小さく悲鳴を上げた.

壁一面に,大量のナイフがある.
飾られているわけでも,ケースの中に収められているわけでもない.
凶器がむき出しのままで,刺さっている.
「ウィル,」
みゆは少年の顔を見返した.
「どうしたの?」
少年は不思議そうに首をかしげる.
人が住む部屋としては,異常な光景だ.
なのにウィルには,普通のことなのだろうか.
カツンと,何かがみゆの足に当たる.
「危ないよ,ミユちゃん.」
何が当たったのか確認するよりはやく,少年がみゆを抱き上げる.
床に散らばっているものも,抜き身のナイフだった.
見回せば,家具は背の高い本棚と小さなベッドのみ.
本棚には本がびっしりと詰まって,ベッドの上には本とナイフが置いてあった.
――黒猫の仕事は,
――ウィル様は国王陛下直属の臣下ですので,
ウィルの仕事は何なの?
今にも口から飛び出しそうな言葉を,みゆはのみこむ.
それは禁句,けっして口にしてはいけない言葉.
生臭いにおいが,部屋にこびりついている.
銀に光るナイフから連想されて,みゆはにおいの正体に気づいた.
血のにおいだ.
少年はみゆをベッドのそばで降ろして,ベッドの上を片づけ始める.
ナイフは乱暴に床に落として,本はていねいに拾っていく.
いったいこの部屋には,何十本のナイフがあるのか.
すべて小さく,みゆの手に収まるサイズだ.
みゆが本の一冊を手に取ると,少年はさりげなく奪い返す.
「これは魔法の本だよ.」
ウィルは本棚に本を戻した.
みゆは背表紙に書かれた文字を読もうとしたが,読めるほどに部屋は明るくない.
ベッドのそばに戻ってきた少年がたずねる.
「抱いていいの?」
あまりにも率直な質問に,みゆは視線をそらしてしまった.
はいとも,いいえとも,答えられない.
ほおが赤く染まっているのが,自分で分かるほどだ.
「私は,地球へ帰っても恋人をつくらない.」
部屋を照らしていた明かりが消える.
おそらく少年の意思で.
「最初で最後だから,ウィルだけを想っているから,」
だからみゆには,少年の表情が見えなかった.
「思い出がほしいの.……この夏の,」
「そうだよ,ミユちゃん.」
どんな顔をして,愛をささやいているのか.
「僕以外の人を見ることは許さない,僕以外の未来が君にあるのならば,」
夜の底へ落ちていく,白銀の刃に囲まれて.
「今,この場で殺してあげるよ.」
口づけの甘さと手の冷たさが,アンバランスだった.
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