水底呼声 -suitei kosei-

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  1−9  

部屋の壁に立てかけている木の板に,とす,とすと二本のナイフが刺さった.
黒の少年はベッドの上であぐらをかいて,三本目のナイフを構える.
最小限の動きで投げれば,ねらいどおり二本のナイフのちょうど真ん中に刺さった.
「つまらないな.」
彼女に会えないのは退屈だ.
何をしていても,時間が長く感じる.
少年はごろんと寝転がった,五本のナイフを一気に投げる.
軽快な音を立てて,ナイフが円状に刺さったが,まったく楽しくない.
「すごいね!」と喜んで,手をたたいてくれる女性がいないから.
少年はため息を吐いて,天井を眺めた.
天井は木の板で覆われて,何本かのナイフが刺さったままである.
みゆが王城に来るまでは,少年はこの部屋で一日を過ごしていた.
城の奥に隠された,秘密の部屋.
部屋から出て行くのは,仕事があるときのみ.
城の者たちは,ウィルが姿を現すのは誰かが死ぬときだと分かっていた.
どうして,彼女の部屋を出て行ったのだろう.
少年は,ぼんやりと考える.
――その娘を大切にして,幸せになりなさい.
昨夜,エーヌに会ってから,少年には分からないことが多い.
そしてみゆに関しては,「まぁ,いいか.」と流すことができない.
心があちこちで引っかかる.
今朝の記憶が,何度も繰り返される.
みゆは出て行ってと言った,ウィルは留まりたいと思った.
彼女の命令に従う義務はないのに,少年は自分の望みよりも彼女の望みを優先させた.
「なんでだろう.」
いつか彼女のきれいな涙を見てみたいと思っていた.
なのに実際に涙を見せられそうになれば,胸が苦しくなった.
昨夜も,寝ている彼女を起こすつもりだったのに,できなかった.
あまりにも安らかに眠っていたので,触れることさえためらわれた.
みゆが否と言うならば,少年は何もできない.
なぜか,何もできなくなってしまう.
反対に,彼女が是と言うならば…….
ぞくり,と背に冷たいものが走る.
鼓動が速くなり,少年は自分の欲望を知る.
みゆのためならば,きっと何でもできる.
彼女以外のものがすべて,無価値なものに成り下がる.
世界の意味が変わる瞬間,少年は恐怖に似た喜びを感じた.

薄やみの中で,カイルは静かに息を吐いた.
長い黒髪の娘が,ベッドの上でひざを抱いて泣いている.
四日後の儀式で殺される,哀れないけにえの娘だ.
恋人に裏切られた気分なのだろう.
カイルの監視を知らずに,泣き声を押し殺している.
愛していると態度で示し続けた少年は,彼女よりも国王に対する忠誠心を取った.
黒猫は,恋に落ちても黒猫のままだった.
狂ったかに見えた歯車は,変わらずに回っていた.
――十日間,ずっとそばにいて,僕の顔を見ながら死んでもらうつもり.
まともな人間の考えることではない.
それを,少年は実行するのだ.
カイルは少年に,人を殺す方法しか教えていない.
だからウィルにとって,最大の人との関わりは殺すことだ.
「好きだよ.」とささやきながら,彼女の血を求める.
少年は愛した女性を殺し,さらにその身を汚すだろう.
カイルはちらりと視線をやって,彼と同じくいけにえを監視しているスミを見やった.
若草色の髪の少年は,娘を痛ましげに見つめている.
カイルが気配を消して,そばにいることに気づかない.
ばか者,監視役が対象に同情するな.
この仕事が終わったら,スミには強く言い聞かせなくてはならない.
いけにえに同情するくらいならば,城から去れと.
気まぐれで拾ってやったが,カイルにはスミを養育する義務はないのだ.

カリヴァニア王国.
この王国は,呪われた魔物たちの王国であると忌まれている.
神が存在する,もっとも美しい国の住民から.
カイルはその国からカリヴァニア王国へ,赤ん坊だったウィルを連れてやってきた.
つまり王国における,たった二人だけの外国人である.
カイルは国王ドナートと会い,王国の秘密を知った.
カリヴァニア王国の民は,昔は神の国で暮らしていた.
だが許しがたい罪を犯し,故郷を追い出されたのだ.
そして三方を海で囲まれた,この大地に閉じこめられた.
大地は,五百年後に水没する.
今は王国暦496年,水没まであと四年の猶予しかない.
海岸線が徐々に近づいているのを,カイルは国王とともに見ている.
「国民に気取られぬようにせよ.」
国王はパニックになることを恐れ,王国の滅亡を隠した.
神の呪いという情報は,代々の国王にのみ伝わっている.
国民の多くは王国の外に世界があることも,王国の名前も神の存在も知らない.
カイルは国王の頼みを受け,呪いを回避する方法を探した.
だが,それは若い女性の血を大量に必要とする.
「いけにえが必要です.年に一人の女性が.」
カイルの言葉を,国王は真っ青な顔色で受け止めた.
そのときの彼の震えを,カイルは今でも思い出すことができる.
国王は断腸の思いで異世界からいけにえを調達し,儀式を始めたのだ.

夕刻,みゆは城の食堂に一人でいた.
テーブルには好物ばかりが並んでいたが,はしはなかなか進まない.
はしがあるとは奇妙な話だが,毎年,日本人女性を受け入れている城の者たちは,ある程度,日本のことを分かっていた.
玉子焼きや肉じゃがに似た料理が,食卓に出てくることもある.
「ショウコちゃんが七年前に教えてくれた,ニホン料理さ!」
得意げに笑うコックに,みゆは驚くばかりだ.
祥子(しょうこ)という女性は,十日間をほとんど厨房で過ごしたらしい.
たがいの国の料理を教えあうという,有意義な文化交流を楽しんだようだ.
私は五日間を,ウィルと過ごした.
焼いた肉をつつきながら,みゆは思う.
あれほど他人と一緒にいたのは,初めてだった.
少年は朝から晩まで,いや,昨日やおとといは夜もそばにいた.
そばにいすぎた.
だからこんなにもつらい.
一人でいるのはいつものことなのに,さびしいと感じる.
おいしいはずの食事を,味気ないと感じる.
そばにいてほしい.
今,そばにいてほしい,私のことを好きでなくていいから.
四日後に,永遠の別れを迎えてもいいから.

「黒猫は,一緒にいないの?」
部屋に帰る途中で,みゆは見知らぬ兵士に呼び止められた.
「今,一人?」
彼はきょろきょろと首を動かして,あたりを探る.
薄い皮の甲冑を着て,腰には大きな剣を差している.
「何の用ですか?」
「ふーん,好都合だ.」
じろじろと上から下まで眺められて,みゆは体を硬くさせる.
みゆにとって不都合なことに,廊下には人通りがなかった.
「あ? 怖がらなくていいよ.」
兵士は軽薄な笑みを浮かべて,みゆの肩をたたく.
「ちょっと聞きたいことがあるだけさ.」
「触らないでください.」
みゆは背中にまわされた手を,身をよじって避けた.
「俺のこと,分からない? いつもこのあたりを警備しているのだけど.」
言われてみれば,顔は見覚えがある.
「君,チキュウから来たんだろ?」
みゆがうなずくと,兵士は満足げに笑う.
「ならさ,サエキ・アキコとリート・カズンに会ったことはないか?」
彼らの名前を,みゆは知っていた.
去年,二人で地球へ帰った恋人たちだ.
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