水底呼声 -suitei kosei-

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  1−8  

朝,目覚めて思うことがある.
あぁ,どうして私は起きてしまうのだろう.
生きていても,どうしようもないのに.
「今日で,六日目.」
ベッドの中,天井を見つめたままで,みゆはつぶやいた.
この異世界滞在という非日常は,あと四日で終わる.
「勉強しなくちゃ,」
四日後には地球へ帰る.
今度こそ,姉の入学した大学に合格しなくてはならない.
みゆはのろのろと起き上がり,視界の端に黒い塊をとらえた.
「ウィル!?」
びっくりしてさけぶ.
黒の少年がベッドのそばで,猫のように丸まって眠っているのだ.
片腕で寝顔を半分以上隠して,体をコンパクトにまとめて小さくなっている.
もちろんみゆは,少年を寝室に招き入れた覚えはない.
「信じられない.」
顔が熱を持つ.
女性の寝室に,こっそりと忍びこむなんて.
みゆは眼鏡をかけて,ベッドから降りた.
すると少年の瞳が,ぱっちりと開く.
「ミユちゃん.」
みゆをぎゅっと抱きしめて,ささやく.
「おはよう,君が起きるのを待っていた.」
甘い声に,胸がきゅうと締めつけられた.
「勝手に寝室に入ってこないで.」
拒絶する腕に,力が入らない.
怒らないといけないのに.
「君に会いたかったんだ.」
「だからって,」
「好きだよ,ミユちゃん.」
さりげなく落とされた,決定的な言葉.
「なぜ?」
みゆは初めて,好意の理由をたずねた.
少年が初めて言葉に出したので,みゆも言葉で返す.
なぜ,と.
ウィルとは初対面だった.
うぬぼれていいのならば,少年は最初からみゆを口説いていた.
一瞬で恋に落ちたように.
けれど,みゆはけっして美しい容姿をしていない.
一目ぼれされる要素はないのに.
「本当に,私が好きなの?」
あの優しく,誰からも愛された姉ではない.
姉のできそこないのような,……生き残りの妹.
「初めて君に会ったときに,聞こえたんだ.」
少年の暗い笑みが,底の見えないやみに引きずりこむ.
「僕を呼ぶ声が.――君は僕のもの,僕のために用意された女性だ.」
体がまひしたように,動かない.
「僕は何も持たないけれど,君だけは僕のものだ.」
この世界に来る前ならば,こんなせりふは一笑に付すことができただろう.
「私はウィルに会うために,生きてきたの?」
沈んでいくのを止められない,こぼれた水が戻らないように.
「そうだよ.」
少年がうれしそうに笑う.
「あの列車事故で生き残ったのも,ウィルのため?」
弱々しく,声が震えた.
「ミユちゃんの命は,僕のものだよ.」
少年の手が,みゆの首に伸びる.
「僕が……,」
救いは,暗い海の底にある.
光差す場所には,生き残ったという負い目しかない.
苦しい,生きていくのは苦しい.
たったひとりで生きていくのは,
「ウィル,お願いがあるの.」
そんなことは無理だと分かりながら,みゆはすがった.
本当に私が好きというのならば,
「私と一緒に,地球へ帰って,」
おぼれる者が,何の助けにもならないワラをつかむように.
「帰らないよ.」
さらりとかわされて,みゆはぼう然と少年の黒い瞳を見つめた.
「僕は,国王陛下の黒猫だから.」
その瞬間,潮が引くように急激に,みゆの熱は奪われる.
いったい,私は何を言っているのだろう.
何を,ばかげたことを言って…….
「出て行って,」
みゆは少年の胸を押して,腕の中から逃げ出す.
「もう私に構わないで.」
自分の期待していた答を思うと,みじめさで胸がつぶれそうだった.
出会ったばかりの,何も知らない少年を頼るなんて…….
「なんで?」
少年は悲しそうに,腕を伸ばす.
「触らないで!」
悲鳴のような声が,ほとばしり出た.
「部屋から出て行って,今すぐに.」
子どものように泣き出してしまいそうだった.
みゆはうつむいて,歯を食いしばる.
涙は見せたくない,ウィルにだけは.
音を立てずに,不意に遠ざかる体温.
みゆが顔を上げると,広い寝室にひとりきり.
涙がこぼれ,止めることができなくて,大声を上げて泣き出した.
この体は,からっぽなのに.
感情はあのときに消えたのに.
生きることは許されない.
姉の代わりにならなくては.

――みゆ!
揺れる車内で,姉は迷うことなくみゆをかばった.
特急列車脱線事故による死者六名,重軽傷者三十五名.
事故から五年たった今でも,覚えている.
助けてくれたレスキュー隊員の手のぬくみ,無慈悲なフラッシュの光と突きつけられるマイク,そして姉のなきがらにすがる父と母.
死者と生者を分けたラインは,どこにある?
死者の列に加わった姉のかや,軽症者の列に加わった妹のみゆ.
姉の時間は二十歳の大学生のときで止まり,なのに今,中学生だったみゆは大学生になろうとしている.
どうして私は,姉をかばわなかったのだろう.
――たとえ同じ高校へ入っても,
そうすれば姉は生きて,私は死んでいただろう.
――たとえ同じ大学へ入れたとしても,
姉の方がずっと,生きる価値のある人間だったのに!
――私はウィルに会うために,生きてきたの?
「そうだったら,よかったのに.」
ウィルが私のものだったら,よかったのに.
ウィルが私のために用意された人だったら,よかったのに.
ほろほろと落ちていく涙が,みゆに教える.
消えたと思っていた感情は,心の奥底に眠っていただけだ.
だから,たやすく揺り起こされた.
優しくされて,舞い上がって,思い上がったとたんにつぶされた.
少年の心を,動かすことなく…….
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